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2021年07月20日12:22

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2021年に冠たる実写映画『いとみち』の素晴らしさを知っていただきたい

※タイトル通りのテキストです。また敬称は略させて頂いております
 根幹に触れない程度のネタバレはしていますが、
 この作品の魅力は、ネタバレでは色あせないと確信しています


映画「いとみち」予告編
https://youtu.be/7tD5TBYd5DE

まず、なぜ今作を注目するに至ったか。
【この段落は自分語りで、本文は次段以降になります】
近年フィルムコミッションにて"ご当地映画"が多数制作されており、
自分の出身地であり現住所である熊本も例に漏れない。
行定勲監督や高良健吾をはじめとした映画人も世に知られて久しいが、
彼らの活動は、地元との関わり方を端的に示している。
近年の災害やコロナ禍だけでなく、とどまることの無い過疎化。
失われるのは建物だけでなく、地域のつながりやなりわい、
方言や風習といった文化までもが、年を追うごとに霧散していく。
フィルムコミッションというのはただのブームではなく、
失われゆく日本の地域性を記録するという役割を成している。


前置きが長くなったが、今回の『いとみち』。
インターネット上の情報でふと目にとまった本作は、
青森ご当地映画で、その主演がご当地出身の駒井蓮。
地元を背負った作品ということで勝手に注目していた。
遅ればせながら近くの映画館で上映されるとのことで、
初回鑑賞したところ、その完成度、物語の素晴らしさに驚いた。
作品としても勿論素晴らしいが、それぞれの役どころを好演したキャスト。
特筆すべきは、抑制から次第に熱を帯びるいと役の駒井蓮は、
そのうちにではなく、この作品で既に素晴らしい女優ではないか。
ただ自分は慎重な性格なので、初回の熱狂を一旦冷ました後、
様々な批評レビューに目を通した上で、二回目を鑑賞。
その上で標題の評価になったので、このテキストを書き起こしてみた。
この映画を推奨する自分なりの視点をいくつか紹介したい。
(魅力を語っていくと語り尽くせないので、かなり絞っています)


○空襲の語り部のシーンの意味合い
序盤での授業シーンでは江戸時代の凶作・飢饉の話。
青森の駅前には、地域経済の苦境を物語る寂れた商店街のシーン。
青森という地域の歴史を振り返ると、苦難がしばしば訪れている。
作品冒頭のモノローグ、そして終盤のライブシーン前の観客のセリフ。
青森の歴史というマクロと、いと個人の人生というミクロ。
この2つの畳みかけが、この映画を立体的に織りなしている。
【7/29補記】名前の"いと"、いとが歩む人生という"いと"、"青森の歴史の"いと"、
そして津軽三味線の"いと"。これらが作品に徹頭徹尾貫かれている。
単に原作を映像化しただけにとどまらない、横浜監督の深意に驚嘆するばかりだ。


○いとが高校生になっても濃厚な方言が抜けない理由
普通は同級生と交流するうちに、なまりは均質化していくと思われるが、
それがなかったのは、親しい友達がいなかった、ということが、
友達の家に行くと言いながら図書館で寝ているシーンに示唆されている。
幼少期の回想シーン、重大な出来事をきっかけに内向きになる姿を、
雀こ(津軽版はないちもんめ)に仮託しているのだ。
そして見ている自分たちが津軽弁を理解できないこと、
そのことがいとの孤立感を一層引き出す仕掛けになっている。

ちなみに太宰治がこの題材で短い小説を書いているのだが、
そこに表れているのは、気持ちの伝わらない歯がゆさという、
この映画の底流にあるテーマであることに深みを感じる。

孤立感という意味では、作品の挿入歌である人間椅子「エデンの少女」。
この曲は2001年発表だが、歌詞が絶妙に作品とリンクしている。
そのことは、前述のテーマに普遍性があることを示している。
そしてこの曲は、作品の中盤、まさにターニングポイントに流れる。
まさに歌詞に歌われる、少女がエデンへと駆け抜ける瞬間なのだ。

人間椅子「エデンの少女」
https://youtu.be/izaqqmbtKoc


○三味線シーンの重要性
三味線を鳴らす動機は、作中では多く語られない。
しかしコンテストでの受賞後、1年ほど鳴らさなかった期間があるよう。
おそらく新聞に載った写真で、冷やかされたりしたのだろうか。
母の面影を追い、祖母を真似ながら技術は上達するものの、
思春期の気恥ずかしさの前に鳴らす動機が失われてしまう。
しかし同級生の早苗が先述の人間椅子を教えてくれ、そこに"絆"が生まれる。
(それまでの早苗も、エヴァのシンジのようにイヤホンで心を閉ざしていたが、
 そのイヤホンをシェアするシーンは、非常に印象的である)
そして苦しい生活(母子家庭のため?)をしているその友達に向け、
はじめて"生きている誰かのために"三味線を爪弾く。
この時生まれたモチベーションが、物語のクライマックスへとつながる。
他者とつながり、他者をはげますため、"絆"のために鳴らす。
図らずも父が言うとおり、表現し対話するためのツールとなった三味線。
それはいとが、アイデンティティを手に入れた瞬間でもあった。
その後のいとの生き生きとしたライブシーンは、
ぜひ先入観無しで、目と耳と心で感じ取ってもらいたい。

余談だが、感情表現のツールとしては、父にとってはコーヒー。
さっちゃんにとってはアップルパイ、ともちゃんにとっては漫画。
それぞれのキャラクターにちりばめているのが、絶妙である。


○最後の岩木山のシーンで〆るという是非
急に舞台が変わり、エピローグ風に流れるこのシーン。
二回目の鑑賞を経て、その重要度に改めて気付かされる。
一つは父との和解。じょっぱりだったお互いの心が融けたとホッとする。
一つはいとの成長。眺めるだけだった津軽富士(岩木山)に、
一人の人間として立ち、小さかった自分に客観的に気付く。
そしてもう一つは、いとの世界が360度開けたことの象徴である。

そしてこれは自分の個人的な解釈である。
ラストシーン、台本ではいとが手を振るとあるが…
成長し、おーいと叫ぶいとに向ける、母の眼差しに思えるのだ。
もちろんいと本人かもしれない。個人の人格は単一ではないし、
もしかしたら、いとと母との絆がそうさせたのかもしれない。
いずれにしても、今までのいと以外の誰かがそうさせているのだ。


○まとめ
「勇気や感動を与えるために…」というフレーズが多用される昨今。
しかし劇中でいとは、自分たちの未来が不確かだと言う客にこう言う。
「わあは、好きだように弾ぎます。皆さんも、好きだように、してけ」
劇中ではメイドというお仕着せのイメージへのネガティブなセリフもあるが、
それを演じる中身は、つながり、支え合い、励まし合う、生身の人間だ。
あらゆるものが模倣という世界の中で、自分らしく生きることの難しさ。
"けっぱれ"という言葉には、力強くも寄り添う優しさがある。
(熊本弁の"がまだせ"も、「=がんばれ」という枠に収まらない、
 他者とのつながりを意識した、機微のある方言だと思う)

津軽弁は他の地方の人には聞き取りづらい。
沈黙を聞き取るのはそれ以上に難しい。でも手がかりはある。
この映画のいわゆる脇役にも、それぞれの人生背景があり、
それに耳を澄ませるのも、この映画の喜びの一つだ。
横浜監督をはじめこの作品を作り上げたスタッフ、
主演の駒井蓮をはじめ生き生きと演じきったキャスト。
そして一旦はコロナ禍で頓挫しながら、クラウドファンディングにより、
地元の協力を得ながらロケを敢行、堂々の完成に至った。
この映画の息づかいに、一人でも多く気付いて欲しい。
そして鑑賞した自分たちもまた気付かされる。
模倣で成り立っている世界を不確かに生きる『いとみち』の一人だと。


【追記】Instagramに書いたいとみち旅行記
https://www.instagram.com/p/CSCHjXMH6Mo/

【さらに追記でその他の映画推薦文】
映画『ひらいて』の良さを原作未読でネタバレ無しに語る
https://open.mixi.jp/user/11953538/diary/1980665637

映画『やがて海へと届く』が、届くべき人に届いて欲しい
https://open.mixi.jp/user/11953538/diary/1981970807
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