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2017年08月02日23:46

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朝鮮総督府の「路上脱糞禁止令」とキムチの関係

参照:大和心を語るねずさんのひとりごと「キムチのお話」↓
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2295.html

1910年からの日韓併合時代、朝鮮総督府が何度も出したお布令に、「路上脱糞禁止令」がある。李氏朝鮮時代までの朝鮮半島にはトイレがなく、路上脱糞の習慣があった。

江戸時代の徳川将軍家への慶賀の使者である朝鮮通信使たちも、朝鮮の風習で大便を街道の路上で排泄した。儒教の国の朝鮮は自国を立派に見せるため、600人ほどの大人数の朝鮮通信使がやって来て、朝鮮半島から対馬を経由し、福岡に上陸、そこから半年がかりで陸路を江戸までやって来る。対馬から先の旅費は祝賀を受ける日本の負担で、一回の通信使で100万両(約6億円)の接待費がかかった。当時の幕府の経済力では大した金額ではなかったが、朝鮮通信使は盗みを働いたりして素行不良である上、大便を日本人なら厠でするのに、宿泊した600人の朝鮮通信使が翌朝、国の風習で一斉に街道の路上で用を足し、延々と江戸に来るまでの間、国賓待遇だが実際は野猿の蛮人たちが路上でする大便の後始末が大変で、朝鮮通信使に対する苦情が多かったのである。(これを世界文化遺産に推薦とか、もう頭がおかしいとしか言いようがない!)

とうとう1811年に徳川家斉は、朝鮮通信使について「易地聘礼」(えきちへいれい)といって、江戸まで来させず、対馬藩で挨拶を受けるだけの簡便な方法に切り替えるよう求めた。こうして第12回朝鮮通信使が対馬藩足止めとなり、対馬藩はこの代理接待の功績により、2万石が加増された。ちなみに李斯朝鮮時代まで、朝鮮人は箸や匙がなくて手づかみで物を食らっていたので、人糞を食べる習慣があった朝鮮人は、人糞や人糞料理ホンタクも手づかみで食らっていたのである。(汚w

李氏朝鮮時代の家での食事風景 箸、匙がない↓
フォト

ちなみに、朝鮮半島で、庶民が食事の際に箸やスプーンを使うようになったのは、日韓併合時代の1910年以降のことである。この第12回朝鮮通信使について、また後で記述する。

話は戻り、朝鮮総督府は路上脱糞を禁止した。と言っても、朝鮮総督府が「路上脱糞禁止令」や「朝鮮汚物排除令」を出しても、首都の京城府でさえ、経常支出のうち、糞尿の処理費用は経常支出の半分以上を占め続け、路上脱糞の習慣はなくならなかった。しかし、、とりあえず、路上脱糞禁止令により、朝鮮人は路上で公に大便をしてはいけないことになった。そこで、室内に穴を掘り、脱糞するという習慣が始まった。穴が満タンになると、そこに土をかけ、室内の別な場所に別な穴を掘ってそこでする。これを何年か繰り返すと、室内の縁の下が全部有機物になり、地面が自然発熱して非常に温かくなる。その生暖かいところに野菜を入れた甕(かめ)を、頭だけ出して埋め、その中で漬け物を漬けると、おいしい漬け物ができる、とのこと。ところが、雨が降ると雨水があふれる。甕の中に、大便の汚水が入り、漬け物に糞の臭いがつき、しばらくすると、甕の中で回虫の成虫が泳ぐようになる。そこで臭い消しと、回虫の成虫を殺すため、甕の中に唐辛子をどっさり入れるようになったのだが、ちなみに、回虫の卵は唐辛子を入れても死なない…。おかげで、キムチは各家庭ごとに味が違うとのこと。これが今のキムチになった。(吐w

ここでキムチと唐辛子の話。キムチは朝鮮半島の伝統食ではなく外来文化であり、キムチに使われる唐辛子も白菜も、朝鮮原産ではない。キムチが現在のような辛味の強い真っ赤な食品として朝鮮半島に定着したのは、日韓併合後のことである。唐辛子は、南米のチリが原産で、チリではすりつぶして下剤として使われ、それをコロンブスが薬品としてスペインに持ち帰り、スペイン人により、戦国時代の終わり頃、日本にもたらされた。

唐辛子は日本でも食用ではなく、漢方薬の薬品として、足袋に入れて足を温めるものや、寒さ対策の塗り薬として、秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮半島に持ち込まれ、唐辛子は日本から朝鮮に伝わった。秀吉の朝鮮出兵から、80年ほど後の1670年に書かれた朝鮮の料理本「飲食知味方」に、漬け物としてのキムチが出て来るが、唐辛子を用いたものはなく、キムチはただの漬け物である。朝鮮半島で唐辛子を用いた料理が登場するのは、江戸時代後期の 1809年の「閨閤叢書」で、ここには漬け物に、千切りにした唐辛子を少量入れることが書かれているとのこと。日本でも、浅漬けに少量の唐辛子を千切りにして入れたりする。キムチが今のような辛味主体に近いものとして書かれているのが、「林園十六志」で、1827年の書である。なぜ、文政年間に辛いキムチが広まったのか。

1625年、江戸の両国薬研掘に、中島とくえもんという人が薬種商の「やげん堀」を開業。江戸で流行っていた蕎麦屋の蕎麦の薬味として、唐辛子に麻の実、青しそ、山椒、黒ゴマ、白ゴマ、みかんの皮を入れて、一緒にすり潰したものを、1626年に「七味唐辛子、やげん堀」として売り出し、大人気となった。唐辛子は、日本で色々配合して七味になることで、一般の食用に供されるようになった。

話は、第12回朝鮮通信使に戻る。1811年、第11代将軍家斉の時代、その襲封祝賀(将軍就任の祝賀)のため、第12回朝鮮通信使が日本にやって来ようとしたが、前述した理由で、対馬藩足止めとなった。この朝鮮通信使の食事の際、七味を入れるだけで食事がおいしくなり、朝鮮通信使に「これは何か」と聞かれ、帰りのお土産に持たせたのが、当時、日本国内で大流行していた七味唐辛子。これにより、その後の李氏朝鮮王朝の貴族の高級食品として、唐辛子が大流行した。しかし、まだ朝鮮では唐辛子は貴族の宮廷料理だけのもので、庶民が食するのは、日韓併合時代になってからである。

キムチによく使われる白菜が一般に栽培されるようになったのは、名古屋の野崎徳四郎が大正時代の初め頃に栽培に成功したことがきっかけである。それまでは白菜は、畑で栽培はされておらず、食用としての普及もしていなかった。こうしてキムチは、日本の江戸時代に朝鮮に渡来した唐辛子、これに日本の統治時代の「路上糞便の禁止令」と大正時代の白菜の普及が加わって、いまの形となったのである。キムチはこのように、大正時代に今のキムチの形となり、歴史が浅いので伝統食ではない。つまり、キムチは「朝鮮名物」であり、「伝統食」ではないのである。
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