嫌いなものと大好きなもの、その2つだけで出来ているのでしょうか?それ以外のものもあるようですが。私が私淑している土地は、その嫌いなものと大好きなものでものができていて、大好きなものに心が振り回されているようです。
自分がここに資料を貼るのはカモフラージュのためだね。芸能人の情報もあるかもしれないけれども、いろいろ考えないでください。ヲタクの人が妙に自分勝手なレスをつけていたのが悲しかったけれどもね。
よく上野駅とその周辺地方は、故郷との距離が近いという。その故郷の近いという空気感が今もこの地域を縛っているようにも思う。上野駅周辺地方人はその鉄道で結ばれた故郷をよく道具に使うけれどもそれでいいのかな。私が個人的に気になっている考えも、上野
捨てなければいけないものが存在する。それは友情にあふれていて、その友達を使って脅してくる人間がいるならば、無理して孤獨を感じるような惨めな態度を取るべきではないと思う。私はそれにコンプレックスを感じている。
あることからある一定の時間がたった。そのなかでルサンチマンを抱えている人がいる。それだけ見ているのが正しいと思っている人がいる。それだけを抱えている人に厳しい言葉を投げかける人が婉曲的に存在している。
くだらない。母親が正義に反する物を指す言葉である。母親は正しいのかもしれないけれども、「正しすぎるのは間違っているも同義」と考えている時もあったり、あるいは、「母親個人・世代に照らし合わせれば、正義や光なのかもしれないけれども私や私の世代か
「遊びは危険なほど楽しい」という言葉がある。私が捨てたものは弟が嫌ったものがかなりある。弟が嫌ったら、ある意味捨てたほういいと思うようになった。捨てないといけないもの。結構あるよね。だけれども、捨てたからそれでいいんだよ。私は周りの影響など
弟の大親友に関して、私は男の友情がないといつも落胆している。世間では宗教的に男の友情を持ち上げる。弟はコレに助けられているといつも考え、自分の優位性を見せびらかしている。母親は、それに対して「女の友情だってあります。」と怒って脅して、自分に
弟が大親友とともにタイに行くらしい。何か見せびらかされている感じがして怖い。弟は、自分は友達を作るのがうまい得意というけれども、家族から満ち足りないものを大親友からえているのかもしれない。自分が、まともに生きようと思うのは、弟が大親友を抱え