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2020年01月21日17:08

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【1996年8月】四日市発、関西空港経由で北海道へ!

1996年4月から1998年3月までの二年間は、四日市事業所で強制収容所か流刑者のような会社生活を過ごしていました。横浜から異動して間もないGWに会社生活の将来への漠然たる不安を抱えながら九州旅行に出かけて、三ヶ月後、盆休みの有給休暇を取得したら10連休となり、9日間の北海道旅行は過去最長の旅となりました。

大学キャンパスと雰囲気が似ている横浜の研究所から四日市のコンビナート内の研究室へ異動して、高分子化学の分子シミュレーション関連の仕事を継続したつもりが、事業所ならではの業務管理を前面に押し出し、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を強要し、5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)が日常の習慣以上のノルマとして課される職場の雰囲気に息詰まる思いがし、業務効率化の名のもとに自己啓発セミナーか文化大革命のようなイベントが実施されている様子を眺めるのは苦痛でした。直属の上司からのパワーハラスメント(当時はセクハラという言葉は認知されていたがパワハラという概念はまだ一般的ではなかった)にも晒され、吉良上野介と浅野内匠頭のような敵対関係になりつつありました。

四日市生活は自由なつもりの横浜生活へのホームシックに苛まれるものでしたが、一方で密かな憧れでもあった関西が近いことに慰めもありました。(関西学研都市の研究所に左遷同然の出向となって本格的な関西生活を満喫することになったのは二年後のことでした。)転勤の半年前の9月に大雪山の登山と美瑛の丘のサイクリングを含む北海道旅行に出かけ、登山に同行したメンバーの男子3名、女子3名が関西人だったので、11月、4月と京都で「同窓会」を重ねていたところに、私が三重県に引っ越したことで、いよいよ新たな企画作成に弾みがついたようです。九州旅行から帰ってきて一週間後に三重県との県境に近い滝谷花しょうぶ園(シバザクラの見ごろ)から室生寺までのハイキング、5月の終わりにはツツジの満開の葛城山(大阪・奈良県境)を散策、7月の初めには雪渓が残り水芭蕉が咲く白馬のトレッキングを堪能しました。事業所の雰囲気に馴染めないことと上司からのパワーハラスメントへの恐怖で生きた心地のしない会社生活でしたが、生きる望みを失わずに済んだのは関西に旅の仲間がいたおかげでした。

飛行機のチケットを四日市駅前の近畿日本ツーリストで購入したのは旅の一ヶ月ほど前です。夏の北海道を初めて旅したのは二年前でしたが、7月半ばには羽田からの便が往復ともすべて満席、行きは青森から函館まで連絡船、帰りは千歳空港で昼から8時間待ってキャンセル待ちで全日空機の臨時便に搭乗、一年前は9月中旬の大雪山の紅葉を見る旅でしたが行きの便しか購入できず、帰りは台風も来て多くの便がキャンセルになる中でどさくさに紛れるような感じで、臨時便に搭乗できたのもほとんど綱渡りでした。今回は礼文島から北海道の旅を開始することにして、関西空港から稚内までのチケットを買いましたが残り三席で、夏の北海道人気の凄まじさを物語っています。帰りの便は8月17日、18日とすべて満席なので、19日に有給休暇を取得することにして千歳から名古屋までのチケットを購入しましたが、最終日に道東から札幌まで移動するのはもったいないと思いなおして、翌週、帯広から名古屋までへ変更、残っているのはプレミアムシートのみで贅沢な帰路となりました。ユースホステルの予約の方は、礼文島の桃岩荘に電話を掛けたら相変わらずの歌って踊るミーティングの大騒ぎを受話器越しに聞きながら難なく予約完了、美瑛の二ヶ所と富良野のユースはすでに満室でしたが、150名宿泊できる旭川YHの連泊が決まりました。

旅行を心待ちにしながらの会社生活は、いよいよ居心地の悪さが増大しつつありました。「5S」の担当者を命じられて他の職場の担当者から理想の整理整頓についての話を伺いに行ったけれど自分には似合わない仕事の話には自信喪失で先が思いやられるばかりです。事業所の業務効率化運動の発表会を聞きに行かされ、前向きで明るい雰囲気に驚いたものの、筑波や横浜の研究所の自由な勤務からは程遠い、勤務時間の10%をみんなで仕事のアウトプットイメージの話し合いに捧げて効率化に勤めようという工場なら当たり前の活動が、自分には独裁国のマスゲームを眺めていようで違和感と恐怖感を禁じ得ません。社内の吹奏楽サークルの演奏が発表会を盛り上げていました。学生時代大学オケでトランペットを吹いていた私が、もし四日市に配属していたら今頃、演奏の一員になっていたのではという思いも頭をかすめました。でも従業員を奴隷のように扱う事業所の行事に駆り出されての演奏は、支配者の体制維持のために音楽が奉仕させられている風景を眺めているような気分で心の浮きたちもうわべだけで本当に楽しい気分にはなれず、楽団の仲間入りする気にもなれません。

旅の一週間前には東京へ出張。横浜時代から参加していたコンピュータケミストリーの勉強会に出席したのですが、四日市の事業所の目標管理のうるさい世界とは異なり、和気あいあいと成果を披露しながら知的な営みを温かく見守っている世界に少し心が和みました。帰りの新幹線の中では、同じころに進められている横浜と四日市の計算科学による新規触媒の設計開発支援の打ち合わせに思いを馳せながら、犬猿の仲であった現在の上司とお世話になった横浜の前の上司が決裂して、ゴタゴタの中で私が横浜へ戻ることを妄想しはじめて、ウィスキー水割りの酔いの中で妙な幸福感を無駄に追い求めていたのでした。

8月4日に渥美清が癌のため68歳で逝去。私はこれまでに観たことのある「男はつらいよ」は三作に過ぎず、寅さんのファンとは言えないと思いますが、渥美清の死は自由気ままな人生が受けいれられる時代の終焉のように感じられ、これからの日本は仕事も生活も管理と監視の下で息苦しさの中で営まなければならなくなるのではないかと不安が広がりました。

旅の出発は8月10日でしたが、稚内行きのA429便は8:50関西空港出発で早いので、前日は大阪に宿泊することにして、四日市の社員寮を出発したのは夜7時前でした。近鉄百貨店の7階でビーフカレーと生ビールで夕食、19:59発の難波行特急にギリギリで間に合いました。それほど混んでいないので空席を見つけるのに苦労しませんでした。難波到着は夜の10時、しばらく道頓堀界隈を散策。ミナミを歩くのは5年ぶりです。グリコの看板は補修中ですが、かに道楽の「動く蟹」は新調されてパワーアップ、フグや漁船の飾りも派手で東京の繁華街とはまるで別の国のような賑やかな風景が展開しています。大阪を歩いていると四日市で感じている横浜へのホームシックも薄れ、気が紛れるのを通り越して、大阪滞在をこのまま延長したい気分になり、街のテンポの良さにつられて足取りもすっかり軽くなりました。

サウナに宿泊して朝まで過ごすことにしました。広いサウナルームのテレビでは渥美清の追悼で大原麗子さんがマドンナの寅さんを放映していました。洗い場には短パン姿のオバサンが背中を流すサービスをやっています。マッサージルームではやや若い女性も仕事している模様です。湿式のサウナやジェットバスなどもあり充実の設備です。12時にまるで霊安室みたいな休憩室に入って4時間半の睡眠を取り、再びサウナ室へ行ったらホームアローン2をテレビで放映していて、撃退された泥棒が頭を焼かれていました。難波駅で南海電車に乗り込んだのは6時頃ですが、すでにかなりの人出です。関西空港に早めに着いたのでロビーで前日までの仕事のことから先ほどのサウナ宿泊までを日記に記しました。

稚内行きの飛行機は定刻を15分程遅れて離陸しました。窓側の席(10A)で少し後ろに翼とエンジンが見えます。天橋立、能登半島、佐渡島、男鹿半島を見下ろしました。積雲が窓の外のすぐ近くをまるで羊の群れが泳いでいるようにゆっくりと通り過ぎます。青森県あたりから雲が立ち込めて、着陸態勢に入ったアナウンスを聞いたのは厚い雲の中でした。稚内はかなり涼しく連日の猛暑(35℃)が続く名古屋とは違い、肌寒いくらいです。着陸直前の機内からも黄色い花がいっぱい咲いているのが見えました。2年前に寄った与奈久でまたビーフステーキを食べようと来店したのですが、本日は休みで女性従業員がテーブルを雑巾掛けしているだけでした。代わりに近所の寿司屋へ入りました。生ビールはアサヒのロゴが描かれているジョッキで出されましたが、爽やかな苦みが感じられたのでおそらく北海道限定のサッポロクラシックだったと思います。

稚内の港には巨大なドーム状の防波堤が覆いかぶさり、ギリシャかローマの建造物のような柱で支えられています。「い〜べやわっかない」の垂れ幕が掛かって、ドームの下にはたくさんの店がテントを張って並んでいます。300円のフランクフルトソーセージを買って食べました。演歌歌手が一人でコンサートを開いています。ライダーなどがテントを張って宿営の準備をする姿も見かけられます。

礼文島に向かう宗谷丸は乗船客が多く帰省ラッシュに巻き込まれたようです。切符を買うのに30分程並びました。海がなだらかだったので14時半頃、船上で関空からの空の旅と稚内での時間を日記に記す余裕がありました。まだ桃岩荘に向かうホステラーらしき姿は見つけていません。天気は曇りです。稚内港を出港して一時間近く経つと海の色が明るい青色に変わりました。オホーツク海から日本海に変わる境目であると二年前の礼文島からの帰りの船で同行した「しおりちゃん」が指摘していたのを思い出しました。

礼文島の香深港での桃岩荘ユースホステルによる出迎えの賑やかさも相変わらずです。一緒に到着したホステラーは8人ほど、その中には関空から同じ飛行機だった人の良さそうな男と色白の丸顔で肉付きの良い女の子のカップルもいます。ホステラーを運ぶための小型トラック「ブルーサンダー号」の荷台に乗ると、女子ホステラーの一人が「ドナドナ状態だね!」と言って笑いを呼びました。ユースに早目に到着したので、後続のホステラーの「出迎え」に加わりました。二年前に受けた「出迎え」で一気にハイテンションになったので今回は迎える側になりたかったのです、正座して並んで鐘と太鼓の鳴り物入りで一同満面の笑顔で「お帰りなさ〜い!」を叫び、到着した方は「ただいま〜!」と返すのです。この日は日本海に沈む直前の夕日と日本海をこちらまで渡ってくるような光の筋をカメラに納めることに成功しました。

宿泊しているホステラーは60名ほど。東京大会や忘年会で何度かお会いしたジローさんにお会いしましたが、この日すでに8時間コースを歩いたところで翌日の出発でした。ホステラーにはモヒカン刈りの男もいて驚かされました。明るいチャリダーで人気があり、一緒に記念写真を撮る女子ホステラーが続出しました。バンブー、ダンサー、ベルボトム他お馴染みのヘルパーも集結しています。

夕食後のミーティングも相変わらずの盛会です。島案内では、礼文島唯一のスーパーに売っている二十年前の家族用ゲーム(髪を伸ばして変な分け方をした男の子が表紙)の話や、礼文空港に到着するプロペラ機(まるでハエが飛び立つような離陸)の話が爆笑を呼びました。歌唱指導はスコトン小学校の校歌から始まり、その後の歌って踊るミーティングでは汗だくになりました。喉が渇いたのでジュースを買いに受付へ行ったら、桃岩荘のミーティングで歌われる歌を録音した二枚組のCDも買わされました。今回はユースの案内をする女性ヘルパーにスポットライトを当てたりする演出もあり、ノリノリのミーティングは二年前以上にパワーアップしていました。

翌8月11日の8時間コースの参加者は31名でした。広間でのミーティングの後、食堂でリーダー三名の選出。二年前に歩いた経験からリーダーに任命されそうになりましたが、会社生活の不安から気が塞いで旅に出ても気が紛れず、職場と同様とてもリーダーシップを発揮する見込みがなく、道を間違えるかもしれないと自信の無さを表明して遠慮しました。代わりにいかにもガテン系(水道屋)の髪を茶色に染めた広島のワイルドなライダー男がリーダーを引き受けてくれました。桃組、岩組、アホ組の内、広島のライダー男についてアホ組に参加することにしました。

港のバス停までのブルーサンダー号の荷台は「ドナドナ状態」なので、当然乗り心地は良くありませんが旅の気分は盛り上がります。アホ組参加メンバーの自己紹介を行い、ずんぐりとした35歳の男、背の高い人の良さそうな34歳の男と同世代が参加していることに安堵しました。スコトン岬までは路線バスで約一時間、1100円くらい。バスの中では茅ヶ崎から来た来春看護師さんになる予定のぽっちゃりとして小柄で可愛らしい子と旅の話などしました。旅で知り合った人のバイクの後ろに乗っけてもらうのも移動手段だそうで、スリムで色白なショートカットの女子ライダーの相棒を務めています。若すぎない(20代後半?)落ちついた女性のメンバーも三名いました。桃組は背が高くて健康的にグラマーな千葉の先生がサブリーダーで、八王子に住んでいる目のきれいな獣医科の学生さん(私が3月まで住んでいた横浜市青葉区あたりのことも知っている)など素敵な女性がいて、そちらのグループを選んだ方が良かったかとも思ったりしました。

二年ぶり二回目の8時間コース。天気予報では雨の確率50%で曇っていましたが、バスがスコトン岬に到着するまでに晴れ間も覗いてどうやら歩き終えるまで持ちそうです。前回より一週間早い礼文島でしたが、花の盛りにはすでに遅いようです。それでも道端には内地では高山植物に当たるような白や黄色や紫の可憐な花をいろいろ見かけました。エーデルワイスの花も見つけました。天気が今ひとつですが、汗が少ない分、前回より楽に感じました。8時間コースの経験者も数名いたので道を間違う危険もありませんでした。途中の休憩所では名物の手絞りの牛乳(道場牛乳、DOGYOと印字されている)の濃厚な味わいを堪能し、揚げ芋とホタテ焼きもついでに食べました。海岸できれいな貝殻を拾ったり、ヒトデに食べられた穴あき貝を探したりして寛いだ時間もあります。アホ組リーダーはウニを見つけて、少しずつご相伴に与かりました(密漁行為に当たりますが時効ということにします)。まるで桃の缶詰の端っこをちぎって食べている様な柔らかさで味も臭みもほとんどなく、微かに潮の香りがしました。

桃組さんは関西人メンバーが多いのかテンションが高く、後ろから追うアホ組に対して「ホンマにあほか〜!」と呼びかけてきたりします。また向かい合って手をつないでトンネルを作ってアホ組メンバーを潜らせたり、狭い岩場では「関所」を作ってサブリーダーさん(千葉の先生)とジャンケンをさせたりと遊んでいます。「愛とロマンの8時間コース」と銘打たれたハイキングの成果ですが、バイクで事故って他のホステラーのバイクに同乗させてもらって旅行中の男が小柄な看護学生さんとアホ組の最後尾でツーショットを繰り広げようとしていました。私は桃組の目のきれいな獣医科の学生さんと意気投合したつもりでしばしば目が合って、彼女はその度に前夜のミーティングで覚えたおどけたポーズで応えてきたのですが組をまたいで親密になるまでには至りませんでした。

今回は終盤の岩場続きもあまり困難なくクリア、トラブルは看護学生さんのデイパック(YHから借りたもの)の肩紐が切れたことくらいで、疲労もそれほどなくアホ組と桃組と一緒に地蔵岩の聳える元地にゴールインしました。「8時間コース完全踏破おめでとう」と書かれたプレートを囲んで各組で記念写真を撮った後、終着点にある売店でビールを買って乾杯しました。桃岩荘は禁酒なのでここでの打ち上げとなります。ユースの飯は不味いので売店でウニ丼を買って早目の夕食としてしまう人もいます。生ウニ、焼きウニ、ツブ貝と各自思い思いのお気に入りの海産物を味わいました。生ウニはまるで果物のような爽やかさで、もう回転寿司のウニは口に入れたくないとまで思いました。

元地から桃岩荘ユースまでの道はけっこうありました。ユースからは猫以外の何物にも見えない猫岩は、角度の違うこの辺りでは猫には見えません。桃岩荘の建物が見えだした時から桃組のメンバーがまたテンションを上げて、長い坂道を下りながらユースホステルの歌を歌いながらの行進となりました。行きの飛行機から一緒だったカップルの女の子も皆と一緒にスキップしたり飛び跳ねたりしていました。ユースの玄関前ではアニメソングのメドレーを歌っての大騒ぎでしたが、残念ながら曇っていて夕日が見られなかったので、吉田拓郎の「落陽」を歌うイベントはありませんでした。

この日のミーティングは前日からホステラーが倍増して息苦しくなりそうでした。8時間コースの報告はサブリーダー(女性)から。愛とロマンはありましたか?との質問に、後ろの方であったみたいですよ!と答えていました。歌って踊るミーティング後半は汗だくです。一緒に歩いたメンバー間の住所交換の手間を省こうと、リーダーではなかったけれどユースの旅の達人の篠原君がアホ組の名簿をまとめて作成して後日送ってきてくれました。

翌8月12日は第一便の稚内行きの船で出発しました。行きはブルーサンダー号の荷台で迎えに来てもらいましたが、帰りは香深港まで歩いていくのは桃岩荘ユースのホステラーのしきたりです。昨日、降水確率50%の予報が外れた代わりに出発日に小雨となった中の行軍です。この日に8時間コースを歩く予定を組んだ人の無事が心配です。香深港では早くても次の船までは島に残る予定のホステラーがヘルパーに混ざって見送りに来てくれました。地元の人が帰省から戻る親族や友人とテープの両端を握りあって別れを惜しんでいるのを、桃岩荘ユースホステルの旅人の見送りの大騒ぎが圧倒しています。船のデッキと港の両方向からの盛り上がりです。

稚内までの2時間は長くしんどく感じました。利尻島の中腹には雲がかかって頂上は顔を出しています。デッキのベンチに座っていると寒くて、疲れもあって昨日歩いているときは幸い鳴りを潜めていた持病が疼きだしました。船室は満員です。

稚内には10時に到着。ガテン系のリーダー、篠原君、看護学生さんと女子ライダー、それに男子ライダーで「い〜べやわっかない」の垂れ幕が掛かったドームへ向かいました。一尾たった700円の塩鮭を切り身にしてもらって炭火が用意されているところで、二度目の打ち上げとなりました。私にとって世界一美味しいビールと思っている北海道限定のサッポロクラシックを見つけたので、バイク組には悪いけれど篠原君と二人で乾杯しました。塩鮭は美味しいけれど大量にあるので塩辛さに少し食傷気味になりました。前日に生ウニを食べたのは正解、帰りに稚内でウニを食べるつもりでいたけれど、こんなご馳走攻めではウニの入る余地はありません。ホッケも焼き、ジャンボフランクにかじりつき、デザートに夕張メロンとアイスクリームも味わって腹一杯になって解散し、女子ライダーも含むバイク組と握手して別れました。

篠原君と一緒に12:56の急行サロベツに乗り込みました。旭川までの4時間もかなりしんどい旅で、何度眠り込んでも時間を持て余しました。篠原君は桃岩荘のCDをウォークマンで聞いていました。二枚組の二枚目に4曲しか入っていないというアンバランスな構成ですが、余白にもヘルパーが歌っている歌などジャケットに表記されていない音楽が入っていると教えてくれました。

旭川YHに到着したのは17時頃でした。1991年3月(スキーシーズンに連泊)、1994年8月(北海道旅行の最終日に桃岩荘の非日常の世界からの社会復帰に備えたクールダウンのために宿泊)に続いて三度目。鉄筋のきれいな建物に建て替えられてからは二度目です。バイキング形式の夕食のレベルが上がって、野菜もトマトにブロッコリー、茹でキャベツ、アスパラと量も種類も十分、トンカツはナイフが要らないほど柔らかで上質でした。でも宿泊者の雰囲気は今一つです。若い女の子のグループが中心で、自転車旅行のグループにはタンクトップから豊かな胸の谷間を覗かせている子もいます。でも美瑛の美馬牛リバティYHのようなホステラー同士の情報交換で盛り上がる雰囲気ではありません。きれいなYHではあるけれど魅力に欠けている印象を受けました。

宝塚で英語の先生をしている白人夫婦、千葉からヒッチハイクで北海道にたどり着いたというヒゲの男との会話やUNOで11時頃まで退屈を紛らわすことができました。ヒゲの男は英会話能力が高く、ニュージーランドに一年間過ごしたことがあり、南半球でしか見られない星も眺めてきたそうです。

翌8月13日は朝8時7分のバスで出発しました。ユースの朝食は小麦のフレーク、品数の豊富なサラダで夕食と同様に華やかでした。ユース前のゲレンデの斜面は黄色い花で埋まって早くも秋の彩りを見せ始めているようです。富良野線の車内で8時24分に桃岩荘での時間の日記を書いています(おそらく夜に続きを書いていたと思います)。美瑛駅前の松浦商店でレンタサイクルを借りて出発しました。今回の旅は礼文島だけでなく美瑛も二度目でした。昨年の9月に美馬牛リバティでもらった手作りのサイクリングマップを持ってこなかったのは不正解、松浦商店でもらった地図は美瑛駅周辺が中心、美馬牛方面へ南下するつもりが逆に旭川方面へ北上してしまい、一時間くらいのロスが生じました。その代わり「ぜるぶの丘」にたどり着いてラベンダーの花を楽しむことが出来ました。

天気が良く、青い空に白い雲が泳いで、どこまでも広がる耕地を見守っている風景を眺めると、気持ちも広くなります。夏にもう一度訪れたいという希望が叶いました。牧草が刈り取られてロール状にまとめられている風景も至る所で眺められ、白い雲の大群とも調和して、牧歌的な風景の代表格と言えるでしょう。バイクの一人旅の青年が干し草のロールの近くに佇んで寛いでいる姿も見かけました。11ヶ月ぶりの北の大地の風景との再会の喜びも、収容所か流刑地のような殺伐とした普段の生活に思いを馳せたり、仕事の絶望的な状況を思い出したりするたびに、心の中に黒い雲が広がって、大らかになった気分に水を差しました。それでもパッチワークの丘に向かって何度もシャッターを切っては、高揚した気分を取り戻すように努めました。

美瑛駅の近くの「こぐまラーメン」でバターの入った塩ラーメンで昼食として、またパッチワークの丘へ向かい、ポピーと向日葵の花畑を眺めました。きつい坂を漕いで登って拓真館へ向かいました。ツアーバスからの観光客が列を作っていたので、入館は後回しにして周囲を散歩しました。ブルーサルビアがラベンダーよりも鮮やかな青色に咲き誇っています。白樺の木陰の散歩道を歩くと爽やかな気分になります。麦畑も眺められました。拓真館の周りを一周歩いて戻ったら、ツアーの観光客も去っていたので、前田真三さんの風景写真をゆっくり鑑賞する時間が得られました。

北海道は本州より涼しくて爽やかな気候とはいえ、陽射しがきつくて、精神的に多少弱っていることもあり、体力・気力ともあまり余裕がないので、新栄の丘から帰路に就くことにしました。でも振り返ったら美馬牛方面の丘の上に鮮やかな紫色の花畑が広がるのが見えたので、気力を振り絞って急坂を登り、ルピナスの群生地を今回の美瑛の最後のハイライトとしました。今回の美瑛のサイクリングは、ラベンダー、コスモス、ポピー、向日葵、ルピナスと様々な花畑を眺めて、麦畑、トウモロコシ畑、ジャガイモ畑、干し草のロールと収穫が続きました。

旭川駅に戻ったのは16時頃ですが、ラーメン屋「蜂屋」に寄りました。前回の大雪山と美瑛の旅の途次に寄って気に入った店だったので、三時のおやつにも遅い時間ですが、魚の出汁の独特な味わいのス―プは、塩分が多すぎないのか胃にもたれず、飲み干しました。旭川ユースホステルに戻ったのは17時半になっていました。

(コメントへ続く)

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