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2019年08月20日10:29

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【1991年GW】二度目の九州旅行

前年の暮れに三十歳を迎えてからの一人旅は、三月上旬の北海道、下旬の京都に続いて三度目でした。スキー用具を一通り揃えたのは社内のアウトドアサークルでニセコでのスキーツアーを前にした一月中旬のこと、シーズン4回(日数にして9日)で初級者レベルから自称中級に成りあがったところでした。バブルのおかげで平成元年に大手石油化学会社に入社し農薬の探索の研究室に配属され、定量的構造活性相関解析のシステムを作り上げてこれから応用段階を迎えていました。仕事もプライベートも平穏無事ではあったけれど、完全燃焼しないまま二十代(青春!)が終わったことに忸怩たる思いがありました。

大学院生の時も続けていたアマチュアオーケストラでの活動も万年二番、万年「アシ」の末席トランペット奏者で伸び悩み、会社生活の込み入った人間関係との両立も辛くなって引退状態でした。会社生活は、職場、同期、アウトドアサークルと宴会が多く、ボート、スキー、山登りと体育会系社員の仲間入りしていました。でも自分より年下の先輩、同期に先立って三十路に入ったことに抵抗がありました。スキーもボートも、もう上達が望めないのか?音楽の新鮮な喜びも色あせるのか?旅の喜びも疲労感だらけになりはしまいか?人との出逢いのときめきも薄くなるのか?そんな不安感に包まれる日々でした。

バブルの影響で新入社員の採用が増えて独身寮が満室となったのが前年でした。三十歳以上の寮生を新しい寮から単身赴任者用となっていたガラ空きの古い寮へ移動するという措置が採られました。事務グループのリーダーの連絡会での冗談を真に受けてしまった研究室長からの報告のおかげで古い社員寮は「寿寮」と呼ばれることになりました。元気溌剌の二十代がワイワイガヤガヤとテレビで野球を見ながら酒を飲んだりビリヤードに興じたりしていた新しい寮から、疲れたおっさんが新聞を読んで暇を潰しているような古い寮へ私が移らされたのは旅行から帰った翌々日のことでした。

旅の出発は4月29日(月)でしたが、当時の日記を読み返したら出発までいろいろバタバタが続いています。二日前の土曜の午前中に休み明けに明け渡すことになっている独身寮の部屋で旅の支度をリュックサックにまとめて、車で千葉県沼南町(現柏市)の実家に戻ったのも束の間、午後3時には世田谷区の母方の親戚の家に向かって出発。高速を使わずに都心を抜けて3時間以上掛かりました。獣医科の従妹が二年間留年する話を聞きました(無事に都内の開業医へ就職したのは二年後)。翌日は狛江の大叔母を迎えに走ったりもしています。実家には首都高で夕方に帰ってきていますが、日付が変わって1時25分にリュックサックの中身を点検して、洗面道具を忘れていることに気づきました。財布、ユースホステルの会員証、日記帳に神経を使いすぎて、基本的な旅のアイテムを忘れるとは旅のエキスパートには程遠いことでした。気持ちが落ち着いていない証拠に、日記を書くのも手に余計な力が入って指先がこわばり走り書きより更に酷い字になってしまったことを記していますが、現在から見ればインターネット、ワード、エクセルを使いこなす現在の方が比べ物にならないくらいの劣化を示しているのは間違えようのない事実です。

出発の日の起床は5時半でしたが、前夜に気管支喘息の薬を服用したため副作用で気分は良くありません。東武線で船橋に着いた時から雨が降り出しました。でもGWに入って二日経過しただけでも混雑が緩和して、7時36分東京発新大阪行きの新幹線の自由席に座って行けました。雨が激しくなって新幹線の天井からもパラパラと音が聞こえてきましたが、名古屋あたりからは天候も回復して空が青く晴れて白い雲が浮かんで行楽日和となってきたかのように見えました。新大阪では10時38分の列車に間に合いました。若い女の子四人組や大阪のオバちゃん四人組の大阪弁を耳にして、西日本の旅が始まった気分に包まれました。

全国の天気はモザイク状になっているのか広島で降車したら再び雨でした。市電で紙屋町へ向かいました。ガイドブックで見た地下街のお好み焼き屋は閉店、ボリュームがあるという「びぜん屋」はラーメン屋に転向していました。「お好み村」が昼から営業していることに初めて気づいて行ってみたら、改築中で元の場所から200mくらい離れてバラックのようなところで営業して、通路にも客が大勢立って待っています。一番奥の店に席が空きを見つけて入りました。怖いオバサンが若い男二名を叱りつけながら切り盛りしていました。焼きたてのお好み焼きを熱い鉄板の上に乗ったまま汗だくで平らげました。店を出たあと八丁堀の電停まで少し道に迷いましたが、予定通り広島発14時21分の新幹線に間に合いました。雨は止んでいました。

九州への二度目の上陸は15時半頃でした。小倉の寒さに驚きました。門司港駅に着いたところでリュックサックからセーターを出して着込み、明治の洋風建築のレトロな駅舎の写真を撮った後、幸い雨が止んで曇天となった中を関門橋まで歩きました。門司の街に灰色の倉庫が並んでいる様子を眺めて二ヶ月前に歩いた小樽の街を思い出しました。関門橋の向こうは本州ですが、手を振れば向こう側の人からも小さく見えそうな近さを感じます。でも青緑色に澄んだ潮の流れは速くて白いしぶきを上げて荒れ、大型の恐竜が水面下でうごめいているかのようで、飛び込んだらひとたまりも無さそうな危険を感じました。釣り糸を垂れる人の姿も見受けられます。関門橋は長大でカメラに全貌を収めるのは困難でした。和布刈公園まで歩き、松本清張の小説の時刻表を使ったトリックの舞台だったことを微かに思い出した後、門司港駅へ引き返しました。曇天のせいもあり旅の気分はまだ盛り上がりません。二十代が終わった途端に精神的な張りを失ったような気分がします。歩いている内に腰痛が再発、5年前に二十代で癌のため亡くなったある先輩が腰痛を訴えていた話を思い出して、死について思いを巡らせてしまったりもしました。

小倉駅へ着いたのが17時45分、北九州ユースホステルまで路面電車で行くことにしましたが、真っ赤な車体の路面電車はのろい上にやたらと信号に引っかかりました。八幡で降車して、曲がりくねった坂を延々と登っていくうちにすっかり暗くなりましたが、ロープウェイ乗り場の横のユースの明かりを見つけて安心しました。夕食の時刻に30分の遅刻。きれいなYHで夜景も華やかではないけれど美しく見えました。ペアレント夫妻も若くて親切で話好きです。

前年の夏に高知県の宿毛YHで会った男に再会しました。原チャリでの旅、ライターの燃料を口に含んで火を噴く芸を見せつける人でした。ユースを泊まり歩く旅を続けていると全く別の旅で会った人に再会することも珍しくないのですが、私にとっては初めての「再会」でした。宿毛YHで遅くまで飲んでYHの冷蔵庫のビールを空にしてしまったこと、鶴瓶師匠みたいなオッサンとの危ない会話などの思い出話がありました。この日の夜もホステラー6名で11時頃まで食堂で談笑していました。九州に到着した旅人と九州を旅立つ旅人が交流するYHというキャッチフレーズは本物でした。1970年生まれのマスミさんという大柄で色白の美人、名古屋のメーカーのOLの一人旅で初めてのユースステイだそうです。大人しくてほとんどしゃべらずに会話を聞いていて、面白い話には笑うけれど、バイクやフェリーの話題について行けなくなると長い髪をいじってやり過ごしています。

翌4月30日は、ますみさんが起きてくるのを待ったので出発が9時まで延びました。気持ち良く晴れてセーターを着込むと暑いくらいでした。神奈川大英文科の男と三人でYHから坂を降りました。別府へ向かうつもりだった男は、ますみさんが有田陶器市へ行くと聞いて予定を変更してご同行を決めてしまいました。鳥栖まで「かもめ9号」で一緒、その後は一人で久留米へ二度目の先祖の墓参りに向かいました。昨年入って気に入った久留米ラーメン「瀋陽軒」が定休日だったのは残念でした(その後、閉店したので二度目の来店の機会はありませんでした)。順光寺までの道がうろ覚えで道に迷って時間のロスがありました。住職さんに会えましたがお客さんが見えたのでそこそこに失礼して、先祖の墓には線香を5〜6本備えただけでお寺を後にしました。

西鉄で柳川へ向かいました。駅前の店で「せいろ蒸し」を注文。保温が良くて熱々のものを火傷しそうになりながら食べましたが、味が良かったのかどうかはよく分かりません。レンタサイクルを借りて、川下りを冷やかすように水路と交差する道を北原白秋の生家まで往復しました。街の名前の通り柳の木が多く川面に新緑の芽吹いた枝を垂らして初夏の風情を醸し出していました。川に沿ってレンガの倉庫が三棟並んだ辺りは特に趣があります。船頭が橋の下を潜り抜ける時に背を縮めてやりすごす様子も眺めました。

博多へ戻って17時9発の唐津行きのJR線に乗りました。待ち時間に天神駅から外へ出て見たりもしましたが、南も北もわからず、二回目の九州の旅では大都会の博多に慣れるのはまだ早いようです。福岡県から海沿いに佐賀県へ入り、虹ノ松原駅で下車、虹の松原ユースホステルは非常にわかりやすい場所にあり18時25分に到着しました。ホステラーがまだ少ないので夕食を待つ時間に九州上陸からの分の日記をつけていました。この日のホステラーは男ばかり数人、最初に話しかけてきたヒゲのお兄さんは会社を辞めて4月10日からずっと九州の旅を続けているそうですが、GW前のオフシーズンのホステラーはどこも2〜3名だったとのこと。談話室にはコタツがあって気持ち良く過ごせそうでした。

男だけで夜中の11時頃まで話をしていました。途中で金髪の白人女性が二名到着して受付で「誰もいないのぉ?(Is anybody ・・・)」と英語で叫んでいましたが、受付を済ませたら女子部屋へ直行してそのまま出てくる気配なく異文化コミュニケーションの機会が持てないのは残念です。失業中のお兄さんは広告代理店と一緒にディスプレイの仕事をやっていたのですが、体調を崩したのをキッカケに自立することにしたそうで、失業保険を月20万円もらっているところだそうです。屋久島の旅ではバス停で話しかけてきたオッサンの家に泊めてもらったら、そのオッサンが同性愛者でその関連の性的な話題に夢中になり、夜は同衾を迫るので蹴っ飛ばして追い払い、翌朝は眠りこけている隙に逃げ出したそうです。全国を旅する話題では鹿児島や高知など海沿いの街は汚れている印象があるとも話していました。

5月1日の朝はそれほど天気が崩れていなかったので7時半の朝食まで虹の松原を散歩しました。薄緑色に澄んだ海の水がきれいで波は静かです。白や少し茶色の入った貝殻が波打ち際に沢山打ち上げられています。ユースの宿泊していた白人女性二人の内、受付で叫んでいた気の強い丸顔の方ではなく、優しく穏やかそうな方の美人が海を眺めていましたので、「Beautiful Seaside! 」と話しかけると、ワシントン州から来てエドモンズ大(電車から広告をよく見かけた)の友人に会いに来たそうで、少し日本語も分かるようです。きれいな貝殻を拾うことに熱中しています。YHの出発時に白人女性二人は見事なまでにシーツを丸めて返却していました。

8時36分の列車で唐津へ向かいました。虹の松原の海はきれいだったけれど肝心の松林の写真は撮影していません。唐津城まで駅から15分くらい、天守閣はコンクリートで復元したものに違いないけれど海に囲まれて良い景色です。10時1分の列車には間に合わないのでゆっくり過ごすことにしました。海の向かい側に見える高島には住宅が並んでいました。1000人くらいの人たちが生活しているようです。静かな海と緑の濃い島の風景も良いものでした。若い先生に率いられた小学生の遠足の団体40名ほどが、おやつ休憩で砂利の上にシートを敷いて陣取りました。藤の花の見ごろです。海と島の風景を何枚かカメラに収めた後、唐津を後にしました。

二回目の九州の旅で地元の言葉に耳を傾ける余裕も少しできたかもしれません。博多は西日本というだけで「〜するんよ」という語尾を時折耳にする程度でしたが、柳川の「どじょう供養塔」あたりで休んでいる奥さん三人組の会話はかなりなまりが強かった印象、人の少ない唐津では更に九州なまりが耳に飛び込んでくる頻度が高くなり、九州を旅している旅情も少し高まって来た気がしました。唐津駅には11時頃に戻って26分の佐賀行きの列車に乗りました。佐賀で12時52分発の「かもめ15号」に乗り換えて長崎に向かいながら、昨年よりノリが今ひとつの旅について日記に書き綴っていました。

前年に歩きまわってすっかり気に入った長崎の街を再訪して、気分が高揚することを期待したのですが、この日の午後はリュックサックを背負ったまま市内電車で行ったり来たりの慌ただしさの内に日が暮れてしまいました。駅前の「シーボルト」という喫茶店のような店で皿うどん(700円)を食べました。味が良く量もあって腹いっぱいになりました。塩辛すぎることなく味が濃すぎることもなく満腹でも気分が悪くなることはありませんでした。平和公園を散策。「乙女の像」がお気に入りなのでまたグラマーな体形が目立つ角度から写真を撮影。中国からの贈り物ですが西域の美人の多い地域の民族かと思います。シースルーの服のようでバストトップが浮かび出しているのもリアルです。(2005年までに修正されたのは残念です。この経緯に関する記事はまだ検索に引っかかりません。)

500円の一日乗車券を買ったので市街地の往復を繰り返しました。原爆で片足が吹き飛んだ「片足鳥居」は安全のために破損した半身を切り捨ててしまったので、今ひとつ惨状が伝わってきません。すぐ近くの二本のクスノキは、原爆の被害から立ち直って力強く葉を茂らせていて平和の象徴として相応しいものでした。市電に乗って崇福寺に寄りましたが、中国風の真っ赤な建物には京都の寺のように落ち着ける場所を見いだすことが出来ませんでした。大浦天主堂へ入ると浦上天主堂よりステンドグラスも小さいけれど、グレゴリオ聖歌がスピーカーから流れる堂内では落ち着いた雰囲気に包まれました。ユースホステルに向かおうとしたのですが、お気に入りの「乙女の像」の正面からの写真を撮っていなかったことが気がかりになり、松山町まで混雑する市電で引き返して、まだ明るい内に写真の追加に成功しました。

オランダ坂ユースホステルには受付の時刻に若干遅れて到着。外観は多少しゃれた建物に見えたけれど、中に入ると狭くて古くて、あまり居心地のいいYHではありません。おばあさんペアレントと若い女子ヘルパー二名が切り盛りしています。部屋が暗くて、ベッドは小さいけれど、畳が広いので荷物を若干散らかし気味でも大丈夫でした。洗濯と乾燥はトイレの隣のスペースで出来ましたが、トイレの臭いが漂ってくるのが難でした(前日の虹ノ松原YHには乾燥機がなくて洗濯を諦めたので、洗濯物が片付いただけでも幸いです)。

同室の男は茨城県牛久市の出身でした。禁酒のYHであることに気づかずにビールを買いに行って来て、談話スペースで早速開缶する音を聞きつけたペアレントのおばあさんに「うちではビールは出さないんです」と注意されましたが、無視して飲みはじめました。禁酒を無視するホステラーは他のテーブルにもいて日本酒のワンカップも開けているようです。(あからさまな規則違反はあまり見ていて愉快なものではありません。)出身は牛久ですが親が大阪出身だとのことで、大阪からのカップルと意気投合、YHで飼っている猫とも仲良くなっています。虹ノ松原YHで泊まり合わせた男に再会し、次は都井岬へフェリーで下ると聞きました。女子ホステラーは二組宿泊していましたが、お近づきのチャンスはなく、あまり楽しめない一泊となりました。夜半の3時半に喉の不調で目を覚まして、財布の中から喘息止めの薬を取り出して水も飲まずに服用、症状が落ち着くまで1時間くらい横になれませんでした。

翌5月2日は島原へ向かう前に少しだけ長崎の街を歩くことにしました。ユースの名前にもなっているオランダ坂は、札幌時計台、高知はりまや橋と共に「日本三大がっかり名所」に数えられることがあるようですが、普段着の街歩きを愛好する旅人にとっては、石畳、石塀に絡むつる草、その中の古い洋館の佇まいと長崎らしい魅力がいくつも重なったお気に入りのスポットに外なりません。この後は出島に向かい石畳の狭い道を路面電車と車が危なっかしく並走する様子を眺めました。多種多様な路面電車の走行も長崎の魅力で、駅前の歩道橋から軌道敷を見下ろしていても飽きません。色とりどりの電車の写真、走行中や停車中など数枚撮影しました。二十六聖人殉教の地に登ると、近くの広場から地元の老人がゲートボールに興じる音が聞こえてきました。丘の上までぎっしりと家が密集した様子も長崎ならではの風景です。

駅構内の売店で喘息止めの錠剤を購入した後、9時14分の電車で諫早へ向かいました。諫早駅で乗車した島原鉄道の列車は雲仙の灰のためか窓ガラスが白っぽく汚れています。夜半の薬の副作用で眠気に襲われて10分程眠りました。白壁と瓦屋根の立派な駅舎を持つ島原駅で下車。島原城は再建されたコンクリートの天守閣ですが、石垣が何重にも張り巡らされている様子は熊本城に匹敵する堅牢度を誇っているようです。堀の中にはアヤメが咲いています。天守閣に登城しましたが安全対策の網が張ってあるせいであまり景色は良くありません。

現存する武家屋敷として三軒ほど下級藩士の屋敷が見学でき、巡らされた石垣と道の中央の水路の清らかな水の流れに往時を偲び、古い時代の雰囲気に浸ってのんびりした気分になります。休憩所で「六兵衛」という昔の非常食を食べました。サツマイモで作った真っ黒なウドン状のもので、売店の人からはとろろ昆布を絡めないと美味しくないよとのアドバイスを頂きましたが、箸でつまもうとするとポロポロと切れてしまって食べにくく、味もあまりなくて、戦時中の食料もこんなものではなかったかと想像されるほどでした。武家屋敷跡から少し離れたあたりにも石垣が広がり、前年の8月に訪れた高知県の南西部の外泊の集落と同様、強い海風から家を守る実用的な意味があるようです。

島原の散策は2時間半で切り上げ、島原駅に13時半に戻って14時12分の島原外港までの列車を待ちました。長崎と島原での時間を待合室で日記に記す間に耳にした地元のおばあさん二人の会話はまったく聞き取れず、言葉の訛りの面でも九州の旅に相当深入りした感があります。まだ旅の予定は六泊中の三泊をこなしたところですが、旅の収穫があった証拠にザボン(この土地の名産の大きな柑橘類)を一個とザボンを使った洋菓子を一箱、それぞれ実家と職場への土産に購入したので、荷物の多い旅の後半となりました。

一時間で830円の有明海の船旅は今回の旅のハイライトシーンの一つです。雲仙普賢岳からの火砕流が大きな被害をもたらしたのは旅の一ケ月後でしたが、島原滞在から有明海の船旅の間の白い煙が上がる様子はまだ長閑な景色でした。波の向こうには天草諸島の島々が浮かんで、目的地の方向の彼方には阿蘇山の過去の大噴火でえぐれた特徴的な山容がうっすらと浮かんでいます。甲板で潮風を受ける気分は最高、フィルムを使いきってしまったので船内の売店で一本買い足しました。撮影対象にしたくなる緑色の島々が次から次に出現します。普賢岳をバックに撮ってもらったつもりの記念写真は明るすぎて噴煙も山影も写っていませんでした。有明海は諫早あたりでは白く濁っていましたが、この辺りは青く澄んできれいでした。

三角(みすみ)港に到着して列車に乗り継ぎました。三角ターミナルは三角錘の建物でシャレが効いています。三角線は下り列車の遅れの影響で10分以上遅れました。そのまま熊本まで乗り続ければよかったところ、宇土駅で特急列車が来るものと勘違いして降車してしまい、次の列車を一時間も待つ結果になりました。宇土駅のホームでは、そのまま六本木あたりにいても違和感無さそうな天然の茶髪で色白の典型的な熊本美人が二名ドレスアップして列車を待っていました。二人の会話は純粋な熊本弁でさっぱり聞き取れません。若い女性の土地の言葉を耳にしたのは、列車を乗り逃がした代わりの大きな収穫です。熊本駅で阿蘇ユースホステルに電話で遅刻の連絡を入れたら、夕食を済ませて来いと言われたので、路面電車で交通センターへ向かい、「こむらさき」で並のラーメンを食べました。前年に気に入ったラーメンで、脂が浮いた見かけよりもあっさりした味でスープもほとんど飲み干しました。熊本駅まで10分しか掛からないことを認識していたら、大盛のチャーシュー麵をゆっくり味わったことだろうと思いました。

17時24分発の豊肥本線も途中で10分遅れました。途中の赤水駅はスイッチバック式なので事前の明るい内に知っていればカメラを手に引き込み線の様子をチェックしたはずですが乗車して初めて気づいたのが不覚でした。阿蘇駅には20時を過ぎて到着。YHまでやはり早い列車に乗れなかったドイツ人の男性ホステラーと同行しました。ヘキストの社員でマネージメントの勉強をしに日本に来ているそうです。真っ暗で星がきれいに見えるくらい途中の道は人家もまばらで、大きくて立派な建物があったと思ったら阿蘇中央病院でした。阿蘇YHは大してきれいな建物ではないけれど、雰囲気に山小屋風の温かさが感じられました。夕食は離れで提供されましたが、美味しくなかったので食べそこなっても惜しい代物ではなかったそうです。

9時から80歳のペアレントさん(歯が一本もないそうです)による阿蘇の観光案内のミーティングがありました(一時間ぴったり)。阿蘇駅からYHまでの道の遠さについてのねぎらいの言葉に始まり阿蘇の魅力のユーモアたっぷりの紹介が爆笑を呼びました。米塚の可愛らしさはある女子ヘルパーのお気に入りでYHからタライを持ち出して橇にして頂上から滑り降りて遊んでいたそうです。噴火口は監視員の出勤前に立入禁止の柵を越えると真っ赤に燃える溶岩が見えるそうです。同室の調子の良い男は、ペアレントさんの話を外人さんに英語に訳してあげていました。講談社の「現代」という雑誌の編集者で「健」という一文字の署名で編集後記を書くこともあるそうです。健さんはバイクでの旅で、ペアレントさんの話が終わると早速同じくバイクで来た女性との阿蘇山火口へのツーリングの約束を取り付けました。親切にも私をバイクの後部座席に乗せて連れて行きたいと言いだしたのですが、ヘルメットの手配ができないので叶いません。でも私は慣れない危険な二人乗りをやらされないことに内心ホッとしました。バイクの女性は明日熊本に寄ってラーメンを食べたいと言うので、交通センターの「こむらさき」を勧めました。

すでに阿蘇見物を済ませた名古屋からのOL三人組と話をするチャンスをつかんで、やっとユースでの楽しい出会いの場がやってきました。その内の一人と会社と旅先のどちらの話題か分からないけれど男女の仲の話まで発展しそうになりかけたような記憶がありますが、消灯時刻が迫り十分に話し込めるところまで行かなかったのが残念です。夜11時15分におそらくベッドの上で有明海の船旅からの経緯を記しました。

(コメントへ続く)

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