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2019年12月09日00:13

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太平洋戦争開戦日(わたしの戦争体験記 77)

前に書いていて重複するかもしれないが、いまの記憶で書く。
今日12月8日は「太平洋戦争開戦日」だ。 1941年(昭和16年)だから78年前のことである。1941年12月8日、日本はアメリカの太平洋艦隊の根拠地・ハワイの真珠湾を急襲、アメリカ・イギリスに宣戦布告をし、太平洋戦争がはじまった。

我が家はいつものように父母が7人の子供たちに朝食を食べさせ職場と学校に行かせた。わたしは一年生としてランドセルを背負って西六国民学校へ行った。学校ではいつものとおりだったと思う。まだ戦時色はなかったような気がする。
お昼前の4時間目前の教室へ父親がやってきて先生になにか話している。よろしいと返事があって父が呼んだので、わたしはついていって阪急電車に乗り、父の働く会社についた。
その日は年末近いのにも関わらず会社の祝いの会だったようで、舞台のついた広い食堂ではお弁当が出て社員たちが和んでいた。舞台には漫才や落語や流行歌の芸人が芸を披露して午後遅くまで賑やかだった。いま思うと会社の戦時特需だったのかも。
父の姉が紹介してくれた会社で東京から移転してきた父と姉2人が働いていた。戦時の特需というか鉄工の仕事は忙しかったのだろう。長女は経理課、次女はタイピストとして働いていた。

夕方にお開きになり、父と二人で帰ったのだが、阪急電車が梅田に着くと駅構内がものものしい雰囲気だ。いつも空いているシャッターが閉められ薄暗い。号外が出たのか夕刊か床に新聞紙がばらまかれている。ちょっと違和感を感じる風景だ。
駅ビルの外はすっかり夜で真っ暗だ。新町の家に帰るのに市電に乗ると、乗客たちが殺気立っている。父はこどもを連れているんだ、ちょっと奥へ入れてくれと叫んでいる。ようよう奥へ入れて家に帰れた。
「戦争だ、大変だぞ」と拾ってきた新聞紙を広げて父がいう。ハリウッド映画とジャズとミステリをこよなく愛している父にとって大変な時代がはじまった。わたしにはまだなにもわからなかった。疎開もB29空襲もまだまだ先の話である。

人生が始まったときに疎開があり、つぎにアメリカ軍の空襲で生活基盤を根こそぎ失った。それでもわたしは開戦から78年生き延びていま85歳である。そうだよ、どっこい、おいらは生きている。

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