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2019年02月13日06:48

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私の諏訪神社考(6/11)

(5)鎌倉幕府時代(1185〜1333年)
 木曾義仲は、北陸において平家の大軍を破って京都に入ったが、朝廷、公卿、庶民の信望が得られず、結局1184年、近江の栗津で源義経の軍に敗れて討ち死にした。この戦いで、挙兵当時から義仲と転戦を続けていた信濃国司中原兼遠の次男今井四郎兼平と、下社金刺盛澄の弟手塚太郎盛光は戦死、兼遠の長子樋口次郎兼光はやがて殺されて、上下社の兵も多く戦死した。この間、御射山祭に帰国したり、京都城南寺(せいなんじ)の流鏑馬に参加していた下社大祝金刺盛澄は、頼朝に召し出されて死を宣告された。梶原景時の助命嘆願と、その条件として開かれた流鏑馬で神業にも近い弓馬の芸を披露してようやく許され、一族六十余人と諏訪に帰ることが出来た。

 頼朝が鎌倉に幕府を開くと、上社一族が幕府に重用されるようになった。源氏が滅んだ後、政権奪還を意図して後鳥羽上皇が起こした承久の変(1221年)では、上社の大祝敦信は長子小太郎信重を総大将とし、千野氏など一族を挙げて執権北条氏を支援して勝利した。大祝を退位した敦信は、諏訪盛重として北条泰時、経時、時頼の三代の執権に仕え、以後、上社一族と北条氏の絆は一段と強まった。
 
 上社隆盛の風潮と下社軽視の造営指示に対し、1248年下社大祝金刺盛基は、第5代執権北条時頼に、諏訪神社は下社が本源であることを訴えたが、上社の大祝重信も上社が本宮であると反論している。第9代執権北条貞時の時代、諏訪郡を上社と二分するほど勢力のあった下社大祝金刺満貞は、大祝職を弟に譲って幕府に仕え、貞時の信頼が厚く遠江守に任ぜられていたと記されている。下社金刺氏の名が記録に記されるのは僅かな期間だが、上社一族は、各地の守護に任ぜられたり、また積極的に有力氏族とも婚姻して勢力が拡大している。

 上社大祝系譜には、室町時代も含めると、土佐権守、安芸権守、信濃権守、三河権守、伊勢守、越中守、美作守の官職名が見られる。また婚姻で、保科、千野、矢島、有賀、知久、小坂、藤澤、中野、平出など有力氏族の外戚となっているのがわかる。王政復古を願う後醍醐天皇の北条追討の勅旨に、北条高時の命で西上していた足利尊氏が、三河国で後醍醐天皇側につき、新田義貞も挙兵して鎌倉を攻めたため、鎌倉幕府は滅亡した。その時諏訪入道直性など諏訪一族は、高時の遺児の時行を諏訪まで連れて逃げた三男盛高を除き、高時と共に鎌倉東勝寺で全員壮絶な最期を遂げている。
 
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