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2019年07月19日23:53

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"Don't Think. Feel" 『海獣の子供』

考えるな、感じろは、永遠の格闘技スターの台詞。*1
本作は、その台詞のままである。

両親、同時に周囲との関係づくりが下手な少女・琉花は、
父親が仕事する水族館で不思議な少年・海と出会う。

海が「人魂」と呼ぶ、隕石落下を目撃して以降、
光と化し、魚が消失するなど異変を巻き起す世界の海洋。
琉花は、海と似た少年・空とも出会って、壮大な冒険の幕が上る。

まず最初に映像から。
原作の五十嵐大介は特異な作家だ。作画は、ほぼすべてボールペンとフリーハンド。
独特の創作スタイルは、もはや世界観にまで昇華している。*2
ただ、生き物のような線描は、映像再現がむずかしい。

作画監督の小西賢一を筆頭に、スタッフは「それをやってのける」。*3
作家が特異なら、原作を追随する作り手も異常なレベルと職人技。
もはやアートである。頂点の誕生祭は、めくるめく映像の洪水だ。

同時にそれが本作のすべてである。

この映画にわかりやすい解答はない。

星の種は、作者が別の作品『魔女』で言及した、生殖の石と似る。*4
だが、一緒ではないだろ。冒頭の一文のように、星と人と宇宙の誕生をめぐる物語。
自身は「アニミズム」的認識基準の、宇宙の「全体性」と、
人と星の「個別性」の“ひとつながり”だと思うが、説明は脚注にゆずる。*5

また、小難しいことは脇に置き、考えるのではなく、感じてほしいが、
そもそもの作者の“たくらみ”だ。*6
なら、その“たくらみ”の再現こそ映画の本懐だ。


※1 ブルース・リーの吐く生き方の道標でもある。ちなみに後に続く「〜pointing away to the moon」で「目標を定め行なえ」と意味は完結・補完をされる。

※2 生物的であり、手法自体が、作者が長年追及したきた「アニミズム」的認識基準と物事の境界――此岸(しがん)と彼岸(ひがん)を表現している。

※3 五十嵐大介のマンガが“そのまま”アニメで動くこと自体が異常だ。たとえば、本作のセルを購入して自分がやりたいことは、4Kの巨大ディスプレイに延々と音声なしで映像をリピートすること。あきずに繰り返せるだけの映像強度が、本作にはある(事実において映像だけなら、おそらく今後数年、本作以上の作品はでないだろう)。

※4 生殖の石 = PETRA GENITALIX。 生命なき存在を生命ある存在へと変化させてしまう性質を持ち、世界(地球)に混乱を巻き起こす。出自は隕石。『魔女』の作中、地球の生命に何度も干渉したと説明される。そのため、ある程度、本作の「人魂」と関係があるかもしれないが、あくまで「ある程度」のことだ。

※5 「アニミズム」的認識基準とは、「外見はことなれど内面は同一」。すべのものは“ひとつながり”に連続して“同一”を成し「全体」を形作るということだ。この全体とは、本作では“宇宙”を指し、宇宙とは、つまり“生命”である。あらゆる存在は、宇宙に帰属しながら、同時に宇宙そのものといえる。その「全体性(同一性)」のつながりであるが、我々は、肉体や社会といった“しがらみ”、アイデンティティなど、自我区分の区分けによって認識できない。ゆえ個人/自分として「個別性」を獲得できてもいる。星の種や誕生祭の意味とは、この「個別性」を捨て去り、「全体性」――つまりは、ある存在が宇宙そのものと化す回帰なのかもしれない。自身が「全体性(同一)」の一部だと認識し、すべてがつながっていることを想い出すが、反対に「個別性(自己)」は消滅する。物語の最後に、琉花は、自身の弟/妹のへその尾をハサミで切る。その瞬間「命を断つ感触がした」とするが、これは母体とつながって“全体”で「生命」を成す存在を“全体”から切り離し、“個別”の存在とした意味だろう。

※6 そもそも五十嵐マンガ最大の魅力は、言語化しがたい「感覚」や「五感」といった体感性を「画(え)」で表現する部分だ。
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