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mixiユーザー(id:882604)

2019年08月15日10:37

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Mentality on the East Asian Islands日本人のメンタリティ

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日本人ははっきりしない、自分の意見を持っていない、とよく言われる。それはある意味正しい気がする。
何かを表明する際に他の意見が出てくると、

すぐに「それもあります」となる。

相手がはっきりとした意見を持って迫って来られるとどうしてもたじろぎその波に飲み込まれてしまう。しかし、情けなくも映るこの光景には実は仕掛けがある。


他者の意見を許し自分の意見を補完させているのだ。


圧力に負けて考えを曲げさせられる弱さはあるが、その受け入れる力の強さは半端ない。そして押されているだけではなくそれと折り合いをつけながらとけあうことに非常に優れている。

そんなことを可能としている心の拠り所は何か!?

それは自然の美を根底とした" 教え "だ。
日本はよく無宗教と言われるが、実のところは日本の自然の美に基づく神道の国である。
日本は神は精力ある全てのものに宿っていると考える多神教。新たな神を万物に見出す天才なのだ。※1

このような根本思想を持つ人々にとって、

一神教のみんなから「どの宗教に属しているか」と
絶対的な神の存在があり、はっきりとした自分の意見を持っているみんなからもし尋ねられたりしたら、たちまち毎週教会でお祈りをしたり、時期によって断食をしたり、経典を読んで勉強したり、他 色んなものをしているかもしれないという
"宗教イメージ" が沸き起こり、

「いや、無宗教だよ」

と言いたくなる。

ただ、本当に何も無いわけではなく、
観光気分だとしても、神社にお参りに行ったり、お寺に参拝に行くことで人生が完成してると思うのであれば、やはりそれは自分の人生に外すことのできない
大切な " ところ " であることには違いないと思う。

古くは仏教を受け入れ神仏習合を行い、漢字を受け入れひらがなを生み出してきた人たちのハッキリしないが調和を可能とさせ、そのハッキリしないが他を受け入れ続けさせ、
お互いを補い、双方にとって使いやすい形に 少しづつ変えてしまう
既存の信仰体系と習合するという能力、
言わば " 得るための柔軟性 " というものがそこに備わっている。


僕は島が好きだ。島にはフツーじゃないファンタジイが潜んでいる。独自の文化を形成しているところが愛おしい。
不思議でユニークな島にこれからも住ませて頂こうと思う。



※1
日本の宗教とは
●多神教
古代日本では、祖先崇拝と自然崇拝に基づく民族信仰。自然界の諸現象を神と崇める多神教(神々は八百万の神)
●神道
清明心(清き明き心)を重視し、倫理観の基礎を形成する。明治以降、神社神道と天皇崇拝を結びつけて国家神道が成立した。

(特定の地域・民族のみに信仰される宗教を民族宗教と言い、神道は日本民族の宗教である)

キリスト教、仏教、イスラム教における神・始祖・発祥地・経典・教義と比較すると、

●信仰の対象となるもの(日本語における「神」): 神道は八百万の神(自然のもの全てには神が宿っていること)
キリスト教はヤハウェ、イスラム教はアッラー

・日本語における「神」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。他の宗教においての信仰の対象となるものに対する訳としても使用された。
・他言語においては、神道の神を指す場合は "kami" として一般的な神とは区別されることもある。

●始祖:神道は開祖はいない
キリスト教はイエス、仏教はブッタ、イスラム教はムハンマド

●発祥地:神道は日本
キリスト教はイスラエル、仏教はインド、イスラム教はアラビア

●経典:神道は具体的な教えはない
キリスト教は新約聖書、仏教大蔵経典、イスラム教はコーラン

●教義:神道は具体的なものはない
キリスト教は神の愛(アガペー)・神への愛(信仰)、仏教は縁起・慈悲、イスラム教は六信(アッラー・天使・経典・預言者・来世・天命)、五行(信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼)

元旦の初詣(神道)、彼岸や盆の墓参り(仏教)、クリスマス(キリスト教)、教会での結婚式、葬式など、複数の宗教に関わる年中行事や通貨儀礼を行う。日本人は宗教に関して寛容と言える。

●冠婚葬祭
・成人になったことを表す儀式(神道形式)
・結婚儀式(神道、キリスト教形式)
・死者を弔う儀式(仏教、神道、キリスト教形式 ・祖先を祭る儀式(仏教・神道形式)


※参考文献
「通訳ガイド1次試験英語直前コース セッション5 解答・解説集」より
※主に参考、引用させて頂いた箇所

「神道は日本の自然の美に基づく宗教で、日本人の起源や日本という島国の起源を理解しようとする日本人の努力の所産である。神道は、精力のあるもの全てが、まるで生気のように、神を宿すとしている。日本人はこれらの神々に祈りをささげ、彼らの前に表れる全ての中に新たな神を見出していった。指導者、そして最終的に仏教もその中に含まれている。神道では、神は精力ある全てのものに宿っているため、神がとても大きな役割を果たす。精力のあるものには、岩、樹木、部族の長も含むことがある。神とは精霊の一種で、ものの本質であり、清浄な存在でもある。神道はまた、全日本人が一つの神の王家、明確に言うと、太陽神、アマテラスの子孫であると述べている。神の子孫であるというこの伝説は、日本と日本国民が独特な存在であり、日本人の状況や存在にとって特別で関わりの深いおびただしい数の精霊との民族的な系譜の中で国や国民が存在しているということを示唆している。神仏習合が起こらなかったら、日本の国家主義的な考えは仏教が日本に留まることを許さなかったであろう。仏教には、インドヒンズー教とであれ、チベットのボン教とであれ、中国の道教とであれ、その他、数えきれないほど多くの異なる宗教体系と習合していった長い歴史がある。仏教が積極的に神道の儀式や伝統の一部を受け入れ、また同じように神道も仏教の考えや習慣を進んで受け入れることによって初めて、仏教は日本独自の文化の一部となった。そのようにして、日本人に元来備わる民族主義を乗り越えていったのである。神仏習合は最終的に、神道の神々を大乗仏教の中で形成されていった様々な仏や菩薩の現れとみなすことによって達成された。このような概念によって、仏教者は彼ら自身の考えの多くを神道に取り入れることができたし、最終的に、神道と仏教は同じ根本真理を補完し合う存在だと主張することができたのである。このようなものの見方は日本で広く受け入れられるようになっていった。」

※参考文献
ウィキペディア「神(神道)」
※主に参考、引用させて頂いた箇所

日本語における「神」という言葉は、元々は神道の神を指すものであった。ただし『日本書紀』にはすでに仏教の尊格を「蕃神」とする記述が見られる。16世紀にキリスト教が日本に入ってきた時、キリスト教で信仰の対象となるものは「デウス」「天主」などと呼ばれ、神道の神とは(仏教の仏とも)別のものとされた。しかし、明治時代になってそれが「神」と訳された。

他言語においては、神道の神を指す場合は "kami" として一般的な神とは区別されることもある。
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