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2020年04月05日21:55

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堀田道空考

『信長公記』に名前の出る堀田道空は、『美濃国諸氏系譜』所収の堀田家譜に記載がある。

本名は「正兼」あるいは「正元」。
通称は孫太郎、孫左衛門、佐渡守。入道して道空。
文亀3年(1503年)に美濃国厚見郡菅生(すごう)の生まれ。
――菅生は現在の岐阜市内で、岐阜城から西に数キロ程度の長良川沿いの地域。
父は堀田加賀守正道。
母は加賀守通利の娘、あるいは日根野加賀守利就の娘。
妻は明智駿河守光継の娘。
――明智光継は明智光秀の祖父にあたる。

堀田氏は紀氏。
尾張国中島郡中島の土豪で、尾州豪家四家七名字(津島十一党)の一家という。
――現在の一宮市萩原町中島あたり。尾張北西部で木曾川に近い。
――四家とは大橋・岡本・恒川・山川、七名字とは堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村。
美濃の武家とも交流があったようで、大叔母が長井利隆(豊後守)の妻だったらしい。
しかし父正道は尾張守護代の清洲織田氏と対立し、堀田氏はこれに敗れて尾張を追われて美濃へと逃れて土岐氏に従うようになったらしい。
落ち延びた年代は、明応9年(1500年)とも大永4年(1524年)ともいうが、いずれにしても大永4年の織田氏との戦いで父は戦死したらしい。

美濃で生まれた正兼(道空)は、斎藤道三に家老として仕えた。
――当時の道三の家老は、堀田・春日・林・河村・川島・道家・竹腰らだったらしい。
織田信長の元へ濃姫が嫁ぐ際、織田側の平手政秀とともに媒酌人を務めたという。

弘治元年(1555年)52歳で没。
墓所は斎藤道三の菩提寺でもある常在寺。
法名は豊光院前佐州太守道空宗■大禅定門

長男の市助と弟の十郎兵衛は明智光安(光秀の叔父)に従い、弘治2年(1556年)の明智城落城の際に戦死。
次男の正種は明智光秀・浅野幸長に、三男の正直は稲葉一鉄に仕えた。
孫(正直の子)の図書助勝喜は大坂の陣で大坂方について戦没している。

・・・

『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『系図纂要』の堀田系図には、道空(正兼・正元)の名は見られない。
同史料によれば、堀田氏は尾張国愛知郡津島の住人とある。
「美濃系譜」とは当主の名などが共通しているところもあるが、内容はおよそ食い違っている。
特に加賀守正道の事績は真逆で、「美濃系譜」では織田氏に敗死したとされているのに対し、「寛政譜」ではむしろ織田氏に仕えて秀吉の時代まで生存している。

『張州府志』の堀田氏についての各項目をみると、堀田氏は南北朝時代に信濃宮に従って尾張に下向したとある。
信濃宮とは宗良親王のことだが、恐らくその後裔と伝えられる人物のことを指しているのだろう。
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