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2019年11月13日21:55

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作品の「タイトル」について

作品の「タイトル」について

或る人物から「この作品のタイトルと表現され、用いられている素材との関連が不明である」との
問いかけが来た。

私の主要テーマは「レクイエム」と「パッション・受難」である。
私は基本的にタイトルは付けたくない。
特に抽象表現は観る人物によってはその時の心身状態により如何様にも感じられ、解釈される。
「タイトル」は作品を観る人物に作者の意図は何であるか?という好奇心が生じる。
作者がどのような意図を込めたかは観る人物にとっては頗る重要な関心事でもあるからだ。
故に観る人物が個々人の価値観、審美眼により「タイトル」に観念的に囚われる事は止むを得ぬ。
無論、表現されたものを観る人物は如何様な解釈も自由である。

私のこの作品「レクイエム」から何を汲み取ろうが観る人物の勝手である。
私が「レクイエム」というタイトルを付けてしまった以上は当然そこに作者の意図は何か?という問いが
生じるのも当然でもある。

私にとって「レクイエム」は単なる鎮魂、痛みというものではない。
この様な作者からの弁明の如きものは私は本来好きではない。
だが、この問いからは重要なものが含まれている事も見逃せぬ。

小林秀雄が本居宣長の「もののあわれ」について触れている。
「もののあはれ」とは通常の主観的感情ではないと。
「無私の精神」或は「無常観」を体得、感受し得た個人の意識状態で世界をしかと観る事である。
眼前の対象を無私の状態でしかと観て見抜いて、その上で対象が語りかけてくるまで観る。これは瞑想
と同じである。
私のタイトルである「レクイエム」の意図も然り。
私自身が自分の表現したものが私自身の意図、想いの10分の1位しか顕されていないのも自覚している。

世に溢れている殆どの芸術表現など単なる個人的呟きにすぎぬ、と。
このように書けば「傲慢不遜」と言われるであろうことも百も承知で書いている。
抽象表現とは現実から抽出された精髄の表現である。相対的意識が感覚的知覚まで血肉化されねば生きた表現など
出来ぬ。これは今日の唯物論的世界観に呪縛された魂には理解し難い事である。

この問題は具象、抽象表現を問わぬ、さらには分野をも問わぬ問いでもある。
この問題は私が繰り返し言い続けている事である。
今日の軽薄な物神思想は今後益々加速し、暗澹悲惨な様相を呈するであろう。

もっと込み入った考察をしたいと思うが、これ位で止めておく。
さらに考察を進めれば難解な根源的哲学的問い「生存の問い」へと赴くことになるからである。
その問題は別の機会にしたいと思う。

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