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2019年01月13日04:22

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歌枕紀行「愛宕寺」2

 牛若丸の旧跡もおがめたので、そばの路地に入って清水さんへと登り始めました。松原通の延長にあたるこの坂道は、古来から清水詣に利用されたもので、民家のすき間を縫うようにクネクネと続いています。

 松原橋から少し上がった所は"六道の辻"と呼ばれ、平安京ができて以来、亡くなった人を運んできて弔う場所、要は墓場でした。遺体はここでお経をあげて燃やした後、近くの"鳥辺(トリベ)野"と呼ばれる野原に埋葬されたそう。その範囲を、今まで読んだいろいろな古典を基に推定してみると、北は清水坂を境として、南は泉湧寺の辺りまで広がっていたようです。

 また、お坊さんを招いて火葬したりできるのは、そこそこ富裕な人であって、ほとんどの庶民は、遺体をそのまま放置して、鳥獣が始末するのに任せていました。中には『姥捨て山』のように、面倒を見切れない老人を捨てることもままあったようです。

 昔の清水詣は、そんな肉体のなれの果てをリアルに見つめながら、登るごとに極楽に近づくような感じがしていたのかも・・・。そんなこんなを考えていると、亡者が大勢うしろに付いてきているような気がして、少し足早になりましたあせあせ(飛び散る汗)

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 今は昔、七月(フミヅキ)十五日の盂蘭盆(ウラボン)の日、いみじく貧しかりける女の
(今は昔、七月十五日の盂蘭盆会の日、たいそう貧しかった女が)

 親のために食(ジキ)を供ふるに堪へずして、一つ着たりける薄色の綾の衣(キヌ)の
(亡き親の霊にお供えする食べ物を用意できなくて、たった一枚着ていた薄色の綾の衣の)

 表(ウヘ)を解きて、瓫(ヒラカ)の缶(ホトギ)に入れて、蓮(ハチス)の葉を上に覆ひて
(表地をはぎ取って、瓫の容器に入れて、蓮の葉で上を覆って)

 愛宕(ヲタギ)寺に持て参りて、伏し拝みて、泣きて去りにけり。
(それを持って愛宕寺にお参りし、御本尊を伏し拝んでから、泣きながら去っていった。)

 その後(ノチ)、人あやしむで、寄りてこれを見れば、蓮の葉にかく書きたりけり。
(その後、周りの人が不思議に思って、近寄って女のお供え物を見ると、蓮の葉にこんな歌が書いてあった―――)


【盂蘭盆】施餓鬼供養とも。旧暦の七月十五日に、祖霊に食べ物などをお供えして慰める
【薄色】薄紫か薄紅
【綾】模様を織り出した絹織物。女の唯一の財産
【表】衣は表地と裏地が合わさっている。「せめて綺麗な模様をお供えしたい」という精一杯の気持ち
【瓫】平たい盆形の土器
【蓮】泥の中に美しい花を咲かせることから、仏教ではブッダの象徴とされる。女はそれを踏まえて使っている
【愛宕寺】愛宕念仏寺とも。六道の辻にあった寺で、鳥辺野に葬る遺体はここで火葬された。近くの六道珍皇寺では、今も盂蘭盆会に大勢の人が訪れて先祖供養をする


      たてまつる 蓮の上の 露ばかり

                   これを哀れに みよの仏(ホトケ)に

(私のお供え物は、蓮のうえに置く露ほどわずかしかありませんが、どうぞこれを哀れと御覧になって、父母の霊魂をお鎮めください。三世の仏さま・・・)


【みよ】「見よ」と「三世」をかける。三世は前世・現世・来世のこと


 と。人々これを見て、みな哀れがりけり。
(と。人々はこれを見て、みな気の毒がっていた。)

 その人と云ふ事は知らで止みにけり、となむ語り伝へたるとや。
(その女が誰かという事は分からずじまいであった・・・と世間で語り伝えているそうな。)

                          『今昔物語集』巻24・第49話

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