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2016年10月11日00:06

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相模原事件に今更ながら思う

 津久井やまゆり園の事件から2か月以上が経った。神を信じる者として、知的障がい者の施設に働く同業者として、今思うことを書き留めておきたい。
 「知的障がい者」という言葉を聞いて、一般の人はどんなイメージを持つだろうか。私も今の仕事に就くまでは畑違いの仕事をしていて、福祉も障がい者も知らなかった。私が初めて「知的障がい者」という言葉を聞いた時イメージしたのは、「計算ができない」、「言葉が喋れない」、あるいは「言葉を理解できない」…といった人達だった。実際この職に就いてみると、確かにそういう人達が沢山いる。でもそれらによって彼らが受ける生活上のデメリットなどは、多分一般の人が思っているほどでもない。それよりも、彼らのうちの多くの人が抱える深刻な問題は、「自己中心」、「粗暴」、「不潔行為」、「自意識過剰」…といった、要するに「他人を不快にし、他人から憎まれ、嫌われる性格や言動」だと思う。恐らく彼らの生活を支援する人間がいなかったら、彼らは社会でのけ者にされ、彼らの多くが傷害、殺人事件等に巻き込まれるだろう。つまり、放っておいたら彼らの多くがより不幸な人生を送るだろう。そういう人たちを、「少しでも幸せに近づけよう」、「幸せとまではいかなくとも、少しでも不幸な事態を回避させよう」と試みるのが私たちの仕事だ。
 しかし私たちも人間であるから感情がある。日々彼らと接する中で、尽くせば尽くすほど、自分で言うのもなんだが、恩を仇で返されるような思いをすることがしばしばあり、自分の感情をコントロールするのに相当のエネルギーを要する。だから、間違いが起こらないように「障害者虐待防止法」等という法律もできたのだろう。また、虐待防止の研修報告などを聞けば「(施設)利用者の良いところを探そう」などといって、「自己中心」→「自己主張ができる」などと言葉を置き換えて、彼らの長所を探すなどという内容のものが非常に多い。
 しかし、これらの根底にあるのは、「人は他人のためになってこそ(あるいは他人に好かれてこそ)存在価値がある」という考え方だと思う。ところが聖書はそうは言っていない。人は人のために在るのではなく、人は神のために神が造ったと書いてある。確かに、私にも3人の子があるが、一人ひとりの髪の毛の本数すら私は知らない。私が自分の子を設計したわけではないのだから。全ての人は全知全能の神が、神自身のために造ったのだから、不良品などない。人のためには何の役にも立たず、ただ迷惑な人であっても、それでも神にとっては価値があるということだ。だから、利用者の長所を無理やりこじつける必要などない。人の長所など分からなくても良いのだ。人のためになどならなくても、創造主である神のためにはなっているのだから、それで良い。幸いにも私たちには、そういう人たちを支援する使命と能力が与えられているから、彼らの幸せを願って支援するだけだ。時に感情的になってしまうこともあるけれど…。
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