久野久(くの・ひさ)というピアニストをご存知だろうか。彼女は1886(または1885)年、滋賀県で生まれ、1925年に死去した。私が久野を知ったのは中村紘子著『ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋、1992年)だった。
その中で最もショッキングな記述は、久野はしばしば演奏中に鍵盤が血で染まったということだった。彼女はピアノにうずくまったまま朝を迎えることが珍しくなかったほどの猛練習を行っていたらしいが、中村は自身の経験をふまえても、鍵盤が血で染まる理由はわからないとしている。
もうひとつ鮮明に覚えているのは、久野はウィーンに留学し、現地のピアニストの演奏を聴いてショックを受け、ホテルから身を投げて自らの命を絶った
「ピアニスト、久野久のこと」より引用
https://www.hmv.co.jp/news/article/908260065/
あの故中村紘子さんは、当時国内では天才ピアノ少女と言われてアメリカに留学したら、ピアノタッチの仕方そのものが間違いで、一からピアノの鍵盤タッチのやり直し。
音楽も徒弟制度の日本では、欧米で正しいピアノの弾き方も、今のようにYou Tubeなど動画がない時代は、国内の音大の教師クラスもピアノの弾き方すら知らなかった。
ゆえに中村紘子さんは帰国しても、日本流ピアノ演奏ではなくなった(当時の音楽大学からは狂った演奏)と酷評されて、しばらく冷や飯だったとご本人の述懐を聞きました。
BSでやっていた民謡特集を聞きました。
当然低音楽器は唯一和太鼓のみ。
4ビート、8ビート、16ビートもなく、今の西洋音楽に通じるリズム感は生まれようもないとあらためて感じました。
ボーンボーンの低音で満足していた、昭和の国産スピーカー、長岡式スピーカーも当時なら仕方なかったかもです(笑)。
日本人、日本オーディオにリズム表現ができずに躍動感に欠け、立体感(音場、サウンドステージ)に欠けるものが長らくだったのも、欧米人のような先天的?にそれらを意識できる心理がなく、後天的に西洋音楽や絵画、演劇の学習から習得した感覚だからと推測しています。
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