パンフレットに載っていた監督インタビューで、トッド・フィリップスが語っていたが、「いったい何時、アーサーがジョーカーになったのか。それをこの映画では、はっきりと示していない」。
普通のよくある映画なら、”この時にその人は狂った”とか、分かりやすいエピソードで示す。しかしこの作品はそれをやらない。
どうしようもなく、彼は追い詰められ、彼の生涯の歩みや傾向性もあり、偶然も重なって、暴力へ、破壊へ、破綻へと進む。
ある種のこれは、寓話作品だ。寓話と暴力ということで浮かんでくる作家は、村上龍。彼は自らを寓話作家と称している。
村上氏は非常に映像的な作家だし、実際何作か映画も監督している。しかし彼は映画となると、途端に貧しい、説明的な、いわゆる日本映画的な画面しか作れなくなる。力ある映像作品は生み出せなかった。
本当ならば、彼にこういう映画を撮って欲しかった。彼の天才が映像で発揮されたなら、こういう作品になったのではないか、そういうことも考えた。
それは今、彼の近作『オールド・テロリスト』を愉しく読んでいるからだろう。
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