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2007年07月11日19:24

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岡山の 「首切峠」。

  ▲「首切峠」 は昼なお暗い。 ▲岡山の 「首切峠」 の位置▲



〓ええ、先日、「途中」 と 「犬の墓」 について調べて書いたところ、「ナンとでも」 さんから、地元、香川に 「首切峠」 (くびきりとうげ) があるというコメントをいただきました。
〓自転車でツーリングしながらウドンを食べ歩くのがライフワークであるらしい 「えに〜にょ」 さんも、そこを通ったことがあるということで、その当時の写真入り日記も拝見しました。
http://homepage.mac.com/yeno/sanuki88/s88-0824.html

〓「えに〜にょ」 さんに教わった国土地理院の検索システムで 「首切峠」 を検索すると、どうやら、岡山と香川に1ヶ所ずつあるらしいのです。
〓調べてみました。



  【 岡山の 「首切峠」 】

〓場所は、岡山県 真庭市 美甘 (まにわし みかも)。「美甘」 という漢字の当て方は、この地が、ヤマト王権成立時代にさかのぼるような古い土地であることを示しています。

   【 甘 】
    日本語音読み [ カン ]
    中国語北京音 [ カン ] gān
    中国語中古音 [ カム ] gαm
    朝鮮語現代音 [ カム ] 감

〓これが何を示しているかというと、数字の 「三」 を ‘サム’ と読んでいたような、日本人が、まだまだ、漢字を使いこなせていなかった時代に、

   mi-ka-momi-kam美甘

と漢字が当てられた、ということなのです。

〓「首切峠」 の最寄りの駅は、JR西日本の姫新線 (きしんせん)、中国勝山 (ちゅうごくかつやま)、もしくは、月田 (つきだ)。中国自動車道では、落合インターチェンジか、北房 (ほくぼう) インターチェンジで下りるのが近いようです。
〓路線バスでは、中国勝山駅から中鉄バスで、新庄 (しんじょう) もしくは、その先の梨瀬 (なしぜ) まで行く路線に乗ります。本数は1日4本です。
〓いずれにしても、岡山県津山市から鳥取県米子市に抜ける

   国道181号線

に 「首切峠」 はあります。
〓現在は、新道ができていて、峠を通らずトンネルを抜けるようになっています。旧道は、津山から向かった場合、トンネルの前で右に逸れます。逸れてすぐの 100メートル足らずの地点が 「首切峠」 です。その先で道路の下をくぐる川が

   首切川

です。

〓「首切峠」 という名前の由来は、ある程度ハッキリしています。
〓そもそもの発端は、

   「山中一揆」 (さんちゅう いっき)

と呼ばれる農民による一揆です。「山中」 というのは、具体的な地名ではなく、湯原町 (ゆばらちょう) を中心とする、津山から見て 「山の中」 を “山中” と言ったようです。
〓美作国 (みまさかのくに) は、現在の岡山県の北東部にあたります。関ヶ原の戦いで東軍に寝返り、勝敗を決したと言われる小早川秀秋 (こばやかわ ひであき) に、いわゆる津山藩が与えられるも、たった2年で跡継ぎなくして他界したために、家は断絶。
〓1698年 (元禄11年) 正月、家康の曾孫 (ひまご) にあたる、

   越前松平家の松平長矩 (まつだいら ながのり)

が十万石で封ぜられました。
〓松平家の治める津山は、幕末まで、つねに正常が安定しなかったようです。1726年 (享保11年)、津山藩は、幕府の指導により藩財政の立て直しを図るとともに、年貢の取り立てを強化しました。そんな折りに、

   二代目藩主たる松平浅五郎が、わずか16歳にて他界

世継ぎがないために、改易 (取り潰し) は必至という状況でありながら、家康の家系をはばかってか、五万石の減封 (げんぽう) に処せられました。
〓松平家では、半分の減封とは、藩下の真島郡 (ましまぐん)・大庭郡 (おおばぐん)──この2つが合併して、現在の真庭市 (まにわし) となっている──のことであると判断し、この地域で収めさせた年貢を米蔵から、津山に運び出しました。

〓これにブチ切れた農民たちが蜂起したのが 「山中一揆」 です。津山の松平家の無能が招いた悲劇です。

〓真島郡牧村 (まきそん?) の徳右衛門 (とくえもん)、見尾村 (みおそん) の弥次郎 (やじろう) が率いる3〜4千人の一揆勢は、手に手に猟銃、竹やり、鳶口 (とびぐち)、マサカリを持って、米蔵を押さえました。
〓一時は、一揆側のつきつけた 「年貢の軽減や、政治への農民の参加」 を藩側が飲む形で決着がつくかに見えましたが、翌 1727年 (享保12年)、藩は、1千人以上の大砲・鉄砲で武装した兵を送り込み、山中の一揆勢の平定に乗り出しました。
〓1月12日、おそらく一揆勢の気勢をそぐために、代官が、すでに捕らえていた一揆勢の

  5人の首を刎 (は) ね、
  三坂峠にさらした


そうです。13日にも代官勢は、捕らえた一揆勢25人を打ち首にし、13人を三坂峠にさらし首にし、12人を帰路尾峠にさらしました。
〓けっきょく、この一揆平定でさらし首にされた農民は、

  三坂峠 13人
  帰路尾峠 12人
  熊居峠 8人
  首切峠 5人

   ※首切峠では、この他に25人の農民がさらし首になったとも
     伝えられているそうです。

〓かなり詳しい地図でも、正確な位置を確認できるのは、首切峠、熊居峠のみです。熊居峠も、「熊居峠トンネル」 に名を残すのみで、地図からおそらくここであろうと推測される地点は、道路が途切れています。
〓また、三坂峠を首切峠と呼ぶこともあるそうです。

〓不思議なのは、「首切峠」 のそれ以前の名前がわからないことです。もしかすると、それ以前には、名前もない街道の単なる一地点だったのかもしれません。

〓「山中一揆」 は、けっきょく、総計で51人の命を奪ったうえで終熄しました。指導者であった徳兵衛と弥次郎は、津山を引き回しのうえで磔になりました。

〓その年の5月、真島・大庭は天領 (てんりょう=幕府直轄地) となりました。

〓「山中一揆」 については、下記のページに詳しい顚末があります。
http://www.can-chan.com/santyuu-ikki.html
〓同じサイト内ですが、首切峠の写真が見られます。
http://www.can-chan.com/sanchuikki/kubikiritouge-slide.html#top


〓香川の首切峠については、いまだ、調査中であります……
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