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2020年01月22日13:28

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横浜遠征記2「エリソ・ヴィルサラーゼのピアノ・リサイタル」

※横浜遠征記1のグルメ編のつづきです。

1/13神奈川県立音楽堂でエリソ・ヴィルサラーゼのピアノ・リサイタルを聴いてきました。私が「万難排して聴きに行きたい!」と考えるピアニストのひとり。グルジア生まれのエリソはロシア・ピアニズムをネイガウスやザークに学び、リヒテルとも交流してきました。ピアノ教師としてもベレゾフスキーやメルニコフら現役の一流のピアニストを育てています。エリソは弟子に急速な進歩を求めず、じっくりと時間を費やす指導を行っていると聞いています。積極的に来日して演奏活動をしてこなかったためか、一般的には師匠よりも弟子の方が有名かもしれません。しかし2014年ごろから継続的に来日してリサイタルをしてくれるようになり、私も年1回のペースで聴きにいっています。今回も77歳という年齢を感じさせない圧倒的な演奏を聴かせていただきました。

演目は以下の通り。

チャイコフスキー:四季 Op. 37bから「1月」〜「8月」
プロコフィエフ:風刺(サルカズム) Op. 17/トッカータ ニ短調 Op. 11
【休 憩】
シューマン:ノヴェレッテンOp. 21より第8曲嬰ヘ短調
シューマン:幻想曲 Op.17
(アンコール)シューマン:森の情景Op.85から「予言の鳥」

プログラムの構成は、前半がロシアの作曲家の作品、後半はエリソが得意なシューマン。

冒頭のチャイコの「四季」は、プーシキン等がつくった詩と響きあう…というようにというコンセプトでつくられた音楽です。エリソの音色には芯があり太く柔らかい。卓越したフレージングからは「言葉」のようなものが聞こえてきました。楽譜から言葉をひろってきてそれを音楽化するのがロシアピアニズムの特徴のひとつですから、エリソにとってこの曲は格好の演目です。ロシア民謡にも通じる民衆の郷愁の歌。その後に弾かれた初期のプロコの前衛的な2つのピアノ曲。超絶技巧の曲ですが、エリソは難なく弾いていました。腕や指には力が入っているように見えないのに非常に豊かな大きな音が響いています。これは手首の弾力性や背中などの筋肉の重みを使って弾く重量奏法によるのだと思われます。

前半の演奏が終わった時、会場では「ただならぬピアノを聴いてしまった感」が漂っていました。私は席に座ったまま、前半のチャイコとプロコの演奏について、ボーッと考えていました。そして気づいたのは、この2曲は「シューマンつながり」と言ってもよさそうな内容でもあったことです。

チャイコの「四季」には「1月・炉端にて」、「2月・謝肉祭」というような副題があります。シューマンの作品に詳しい方から、炉端・謝肉祭・ひばり・待雪草・草刈り・収穫というワードをみた瞬間、「謝肉祭」「子供の情景」「子供のためのアルバム」などに含まれる同一名称であることに気づくと思います。特に「2月・謝肉祭」が弾かれた時、その躍動感や人が対話しているようなニュアンスが、シューマンの「謝肉祭op9」と似てる…と感じました。
またプロコのトッカータも、シューマンの「トッカータop7」に触発されて作曲されたと冊子に記されていました。エリソの演奏はロックのライブにいるかのような激しいリズムと鋼鉄のような打鍵、強弱の波で溢れ、若きプロコの先鋭性と狂気を感じました。精神的な病を持っていたシューマンと重なる部分もある。
エリソは、チャイコやプロコの音楽的パラメータの中に、シューマンが潜んでいることを暗示していたのかも…と私は邪推してましたw。

後半は、シューマンのノベレッテンOp. 21-8と幻想曲Op.17。
これら2曲を続けて聴いた時、なぜかこれら2曲のもつメロディが描く放物線、符点リズム、音の跳躍、曲想などが“双子”のように似ていると感じました。幻想曲Op.17はよく弾かれる人気曲ですが、エリソほど音符を言葉に替え、鍵盤を弾くというより“木の箱”を鳴らすように弾ける人は多くありません。それとなんともいえない音楽的なうねり。大きな波または渦のようなもに揺さぶられるようなものを感じます。これって何なんでしょうね?
最近、サーカス芸人にような超絶技巧系のピアニストに人気が集まっているようですが、私は彼らが陥りがちな無機的な音楽を私は好みません。昔みた第三舞台の演劇「朝日のような夕日をつれて」のような言い方を真似るなら、朝日のような希望と、夕日にような切なさ、その両方から人間愛や温もりが感じられる…というのがエリソの演奏でした。そんなことを思いながら、シューマンの濃厚なロマン的なものにどっぷりと浸かってきました。(エリソをはじめ、近年、いいネ!と思ったピアニストはレオンスカヤ・メジューエワ、松田華音など、みなロシア・ピアニズムの方々です。)

今回、最も感動的だったのは幻想曲Op.17の最終楽章が終わる瞬間でしょうか。ゆっくりとアラベスクの音型が消えていくかのような終わる時、その超弱音がホールに隅々まで行き渡り、まさにホール内は時間が止まったかのような静寂に包まれました。エリソと聴衆がつくったこの余韻が音楽会のすばらしさを表しています。その後、沸き立つような万雷の拍手。この日のリサイタルの客層も良かった。(私はいつも無神経なブラボーマンに迷惑しています。)アンコールは、シューマンの「予言の鳥op82-7」。またいつかエリソのピアノを聴けることを予言してくれたような…w。

演奏会後、場内放送でサイン会がある旨、告知がありました。私、滅多にサインを音楽家に求めることはいたしません。しかしエリソのサインは欲しい。CDを持ってくればよかった。仕方がないのでプログラムにサインをいただき、“I was deeply moved.”と言いました。(私がサインをもらったのは、最後の記憶はエディタ・グルヴェローヴァのソプラノ・リサイタルの時でしょうか。)

握手をしてもらった時、エリソの手の大きさは私よりもちょっと小さいぐらい。ビックリしたのはその柔らかさ。このような手からあの音楽は生み出されるのか…。原田英代著『ロシア・ピアニズムの贈り物』(みすず書房)には、手首の柔軟性を利用して弾くことが大事だと記されていたことを思い出しましたが、その件、合点しました。
一方でこの著作には、あるエピソードとして、ハンガリーの名ピアニスト、アニー・フィッシャーはロシア楽派のリヒテルの演奏を聴いて「これは音楽の領域から生まれた演奏ではなく、哲学から生まれた音楽だ」と評したそうです。そのリヒテルがエリソを「世界最高のシューマン弾き」と評価していたことも思い出しました。
私、太い根のようなものが大地の深いところまでしっかりと張っていて、その根から吸い上げられる知性や教養が音楽に結実がしていることを実感できるロシア・ピアニズムが、ここ最近のマイブームです。

2020年最初に聴いた音楽会でしたが非常に満足しました。この後、エリソ以上に満足できるピアノが聴けるかどうか怪しいところです。
4月にエリソの弟子のアレクサンドル・メルニコフのピアノリサイタルを水戸で聴きます。この演奏会は全曲が「幻想曲」で統一されています。私、彼の師のエリソが5年前に「変奏曲」で統一したリサイタルを2014年に聴きました。師も弟子も、プログラムにはこだわりがありそうですね。魔法使いの弟子にも期待しています。

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