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2019年11月17日22:19

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ジャン・ロンドー チェンバロ・リサイタル

【プログラム】
 J.S.バッハ:リュート組曲 ハ短調 BWV977より”プレリュード”,幻想曲 ハ短調 BWV906
 スカルラッティ:ソナタ ハ長調K.132,ソナタイ短調 K.175,ソナタイ長調K.208,ソナタニ長調K.119
 J.S.バッハ:協奏曲 ニ短調 BWV974より”アダージョ”
 スカルラッティ:ソナタ ヘ長調 K.6,ソナタ ヘ短調 K.481
 J.S.バッハ:イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV 971,無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004より”シャコンヌ”

ジャン・ロンドー(チェンバロ)


2019年11月2日(土),14:00開演,札幌コンサートホール


フランスのチェンバロ奏者,ジャン・ロンドーのリサイタルを聴いた。バッハの鍵盤音楽を聴けるというだけの理由でこのリサイタルのチケットを買った。この演奏会のチラシによると,2年前,彼が25歳のとき「ゴルトベルク変奏曲」で衝撃的な日本デビューを飾ったとか。ラフな服装,伸び放題の毛髪と髭。ひと昔前のフラワー・チルドレンのような風貌。だが,ステージ上の彼からは,一部のヒッピーのような傲岸さは微塵も感じられない。それどころか,彼が弾くバッハやスカルラッティの音楽からは,真摯に音楽に取り組む誠実な人柄が伝わってくる。このチラシにあるとおり,「実物のジャンは写真や映像のファンキーなイメージとはちがって,哲学を愛する伝道師のような佇まい」である。

このリサイタルをクラヴサン・リサイタルとしないで,チェンバロ・リサイタルとしたのは偶然なのか,それとも意図的なネーミングだったのか分からない。しかし,チェンバロ・リサイタルと名付けた方がこの演奏会の内容を表現するにはふさわしい。フランスの音楽家でありながら,フランス風の演奏でもなければ,グスタフ・レオンハルトのようにドイツ風に傾斜したチェンバロでもない。あえていうなら,現代的なセンスにあふれるインターナショナルな演奏スタイルというべきだろう。フランス特有の明晰な透明感があり,ドイツ的な構成のしっかりしたチェンバロ演奏である。とりわけ,過去を過剰に意識させる演奏からは距離をおいて,現代に生きる人々の感性によりそうような未来志向のスタイルに好感を持つ。再度,チラシから引用すると「その演奏スタイルは極めて正統的で,音楽の奥深くにはいりこんで,作品を『芸術』に昇華させていく」。そして,チェンバロのみならず,アンサンブル,作曲,ジャズなど多方面で活躍しているらしい。

今回のプログラムは,昨年秋にリリースされた4作目のアルバム,スカルラッティのソナタ集からと,デビュー・アルバム「イマジン」に収録されたJ.S.バッハの作品で構成されている。このリサイタルに向けて時間をかけ準備をしたつもりだった。それでも,スカルラッティの作品は聴いていて面白いとは感じなかった。思い起こせば,何十年も前のこと,ホロビッツが弾いた評価の定まったスカルラッティのソナタ集を買ったものの,何度聴いてもその価値を理解することができなかった。この苦い経験をしてからというもの,スカルラッティからは永らく遠ざかっていたが,このリサイタルを機に捲土重来を期したものの今回も再度挫折した。よほどスカルラッティとの相性が良くないらしい。ジャン・ロンドーが弾くスカルラッティのソナタ集を聴いてもこの作曲家のソナタの良いところが伝わって来ず,彼がステージで弾くスカルラッティを耳にしても感動を覚えることは少なかった。録音と実演とではかなり印象は違ったが,退屈するという点では大差がない。きっと,ヴィヴァルディやスカルラッティなどイタリアの作曲家の作品は体質に合わないと考えて,潔く諦める以外に選択肢はなさそうだ。

それに引き換え,バッハの作品が個人的な好みにピッタリなことを再発見する。とりわけ,イタリア協奏曲の完成度の高さは目覚ましい。チェンバロ1台でオーケストラとソロの両方を表現するという試みに成功したことは素晴らしい成果である。チェンバロの上下鍵盤を弾き分けて,ピアノとフォルテ,ソロとトゥッティのコントラストを表現する試みが見事な成功を収めていることに加え,イタリア調の明るく華やかなヘ長調の響にはイタリアの音楽そのものが脈打っているようなところが気に入った。音楽形式と共にその精神さえも自分のものにしたようひびく。そして,イタリアン・スピリットがバッハの音楽の大きな魅力の一部を成しているようにきこえる。ジャン・ロンドーは,ピアノ独奏でも良く演奏されるこの作品をピアノによる演奏に勝るとも劣らない音楽的なインパクトで弾く。アーティキュレーションが見事にコントロールされている。この作品の中核に鋭く迫る捉え方ができているからこそ,こうした演奏が可能になったに違いない。

イタリア協奏曲に次いで感心したのが,無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番のシャコンヌ。この楽曲で最も印象的だったのは,ブラームスの手による目の詰んだ精緻な編曲だ。編曲者はそれほど手を入れている訳ではないのだろうが,とにかく原曲のいいところを残したまま木目の細かいテクストに仕上げている。チェンバロ奏者はブラームス版のシャコンヌを重たくなり過ぎず,かといって必要とされる重量感を損なうことなく,淡々と演奏していた。ヴァイオリンによる力演とは一味違った淡白な味付けではあっても,決して軽率ではないチェンバロ演奏で,休みなしの1時間半のリサイタルを締めくくるにふさわしい演奏である。

協奏曲ニ短調BWV971はマルチェッロのオーボエ協奏曲をバッハ自身がチェンバロ独奏用に編曲した作品。おそらく,こうしたイタリア音楽の編曲を通じて,テーマを間に挟みながら進む協奏曲のリトルネッロ形式を身につけたのだろう。この日は,この協奏曲の中でも,最もよく知られた第2楽章のアダージョが選ばれた。ジャン・ロンドーのチェンバロは北イタリアの音楽に触れるバッハの嬉しささえも表現しているような演奏で,チェンバロの響きの背後からオーボエの歌さえも聴こえてくるようだ。

プログラムの冒頭を飾るのはバッハのリュート作品。チェンバロのための音楽は,リュートのための音楽のスタイルを手本としつつ,独自の音楽語法を作りあげてきたという。なかでも,分散和音の手法はバッハのチェンバロ作品でも多く用いられている。リュート組曲も幻想曲も分散和音のスタイルで書かれた作品である。残念なことに,これらの作品には馴染みがなく,作曲様式も古いためか,あまり面白くはなかった。バッハの音楽としてイメージしていたものの枠外にある類の音楽だったからだろう。ただし,こういう音楽史的な背景に触れることができたのも収穫であった。

プログラムを読むと,ジャン・ロンドーはチェンバロ界のホープともいえる存在らしい。彼の演奏がそのことを裏付けている。静かではあるが,深い音楽を奏でる音楽家である。一度もステージの袖へさがることなく,すべての曲を弾き切った集中力は驚嘆に値する。そして,聴く側も最初から最後まで緊張感を保ったまま全ての楽曲を聴くことに没頭できたのは貴重な経験だった。ジャン・ロンドーの名前は脳裏にしっかり刻み付けられている。
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