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2019年09月21日22:44

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ヴェルディ:歌劇「オテロ 」(ROH)

演出: キース・ウォーナー
装置: ボリス・クドリチカ
衣装: カスパール・グラルナー
照明: ブルーノ・ポエト

モンターノ: サイモン・シバンブー
カッシオ: フレデリック・アンタウン
ヤーゴ: ジェラルド・フィンリー
ロデリーゴ: グレゴリー・ボンファッティ
オテロ : グレゴリー・クンデ
デズデモナ: フラチュヒ・バセンツ
エミーリア: カイ・リューテル
伝令: ダヴィッド・キンバーク
ロドヴィーコ: イン・サン・シン

合唱: ロイヤル・オペラ合唱団
管弦楽: ロイヤル・オペラハウス管弦楽団
指揮: アントニオ・パッパーノ

2019年9月14日(土),15:00開演,神奈川県民ホール


先週末は英国ロイヤル・オペラハウス(ROH )の日本公演へ。ツアーの演目はヴェルディの「オテロ 」とグノーの「ファウスト」。第1日目は横浜で「オテロ 」を観る。

ヴェルディの最高傑作「オテロ 」は,この作品にしてはインパクトが弱い演奏。当たり前に演奏すれば,暴力的なまでのエネルギーを放出するダイナミックな演奏ができるはずと簡単に考えていた。しかし,常にそうなるとは限らないらしい。満足しかねる結果に終わったのは指揮者のパッパーノに責任がありそうだ。

視覚的に大きなインパクトを与えるはずのキース・ウォーナーのプロダクションも,地味な印象を与えるのに一役買っていた。舞台は黒色が基調。しかも,具象的な要素は極力削ぎ落とされ,幾何学模様が多用された舞台美術は極度の抽象性を帯びる。どの時代のどの地方の物語なのか,舞台からは判別不能。おそらくヤーゴ(あるいは,人間そのもの)の内面で煮えたぎる暗い情念を黒色で表現しようと試みたのだろう。極限的な抽象性が狙いを削いでしまった。もう少し具象的な舞台美術であれば,より活き活きした印象を与えたはずだ。

ジェラルド・フィンリー(ヤーゴ),グレゴリー・クンデ(オテロ ),フラチュヒ・バセンツ(デズデモナ)など一定の水準に達する歌手が揃っているにもかかわらず,この作品の迫力を声で表現し切れていない。どの歌手も声量が不足しているように聴こえる。ヤーゴからは悪魔的なドス黒い情念が伝わってこない。オテロ の猜疑心や嫉妬心など,およそ英雄にふさわしくない感情表現も弱い。デズデモナはどちらかというと一本調子な歌いぶりで,この役の叙情性も物足りない。ソリストたちの歌唱は統一感を欠いていて,ソリスト一人ひとりの歌唱は悪くないとしても,「オテロ 」というドラマを役割分担しつつ作り上げるという姿勢が十分ではないようだ。合唱の迫力も迫力満点とは言い難い。

オーケストラも大人し過ぎる。端正ではあるが,ダイナミズムにかける。かと言って,弱音が特別な美しさを湛えている訳でもない。アンサンブルにやや甘い面もある。聴かせどころでも平板な表現から脱し切れない。凡庸な演奏に終始したという印象である。

パッパーノは精力的に指揮していた。しかし,何か空回りをしているように見受けられる。独唱や合唱そして管弦楽と歯車が噛み合っていないような印象も。この作品を深いところでしっかりと把握し損ねているのではないだろうか。パッパーノの好ましからざる面が図らずも露わになったような上演である。「オテロ 」という作品とこの指揮者との相性が必ずしも良くないのかも知れない。もちろん,何かの別の要因で偶然に歯車が狂ってしまった可能性もあるが。あるいは,クライバー&スカラ座のライブCDの印象が強過ぎたのだろうか。

ヴェルディ晩年の最高傑作のひとつ「オテロ 」は,だれがどのように振っても十分に満足できる水準の上演になるもの安易に考えていた。だが,これまで何度か観た公演は,指揮者が独唱,合唱,管弦楽から音楽的エネルギーを巧みに引き出していたことに気付く。このあたりがヴェルディのオペラの難しいところであり,怖いところなのだろう。
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