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2019年12月09日05:21

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阿倍野神社と北畠顕家の墓

郵便局へ不在配達された「敬老優待乗車証を取りに行ったついでに、
そのまま、自転車で北畠顕家の墓と安倍の神社へ写真を撮りに行った。

阿倍野神社

御祭神(主神)
北畠親房
 北畠顕家

由緒
 北畠親房は後醍醐天皇の信任が殊に厚く、延元元年(1336)十月の吉野御遷幸の後は、吉野朝の中心人物として伊勢あるいは陸奥において、京都回復の計画を進められていた。
 
 後醍醐天皇崩御の後、後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で「神皇正統記」を著し、翌年興国元年( 1340)には「職原抄」を、興国2年には「二十一社記」を著し官職の本義、神社の意義を明かにされた。厳しい戦陣にあって著された多くの著作により親房公は、国家的自覚の展開、皇位継承論の形成、そして当時流行していた末法思想への批判、神道の儒仏に対する自主性の確立といった独自の思想を展開された。

  わが国の歴史と伝統を明かにして、大義を説き道議を教えた数多くの著述は切々として人の心を打ち、後世の人に深い感動を与え、日本思想史に大きな位置を占めている。
 興国4年(1343)親房は吉野に帰り、国家中興の実現に挺身されたが、正平9年(1354)4月17日、病にして崩じられた。御年62歳であった。

  顕家公は親房公の長子で、元弘3年(1333)8月陸奥守に任じられ、同年10月義良親王を奉じて陸奥に下向され、陸奥はたちまちその威風になびいた。延元元年(1336)足利尊氏が叛すると、上洛して九州に敗走させられた。 
 しかし、延元3年(1338)に尊氏が東上し京都を占領したため、これを討つべく再度上京の途につかれたが、5月21日阿倍野の戦いにおいて、あえなく戦死された。享年21歳であった。
 また顕家公は戦死される一週間前に後醍醐天皇に「上奏文」を送られている。この「上奏文」は顕家公の卓越した政治理念を知ることのできる資料として今日に至るまで高く評価されている。

 現在地は顕家公が足利軍と戦った古戦場で、明治15年阿倍野神社として創立された。
 詩歌の道・詩歌の庭には北畠親房公生誕700年を記念して作成され、立札には親房公が詠進された歌と宗良親王の唱和を記してある。

   横山高治著 花将軍 北畠顕家 より

北畠公園(北畠顕家の墓)
顕家の戦死した地は、ここという説と、堺 石津との説がある。



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