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2019年09月19日05:23

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高山右近

 豊能郡能瀬に産まれ10歳でキリスト教の洗礼を受けた右近は、
天正元年(1573)21歳で城主となった高槻城内に、
天主教会堂、城下には神学校のセミナリヨを建設した。
 (領内には20もの教会があり、
キリスト教徒は18千人と人口の60%を超えたと言わている)
 
 石山本願寺側として織田信長と戦っていた有岡城主 荒木村重の配下であった右近は、
妹と嫡男を村重への人質として差し出していたが、
信長からの「開城しなければキリシタン一同を右近の面前で十字架にかける」と言われ、
「姉妹や子息を犠牲にしても、キリシタン一同の安隠を希ふことがデウスの御旨ゆえ」と、
村重を裏切り高槻城を開城した。。
 
  また、右近は「利休七哲」の一人として千利休と茶人として終生師弟関係を続けたと言われるが、豊臣秀吉の伴天連追放令により棄教を迫られ、明石城主を放逐された。
 加賀藩主の前田利家からの「三万石ばかり合力しよう」との申し出に対し、
「禄は軽くとも苦しからず、耶蘇寺の一カ寺建立下されば参るべし」と言い、
わずかの供回りと金沢の地に移り住んだ。

 その後、徳川の時代になってからのキリシタンの国外追放令によりフィリピン・マニラに行き、
現地で大歓迎を受けるも、到着後まもなくの1615年1月 熱病により63歳で亡くなった。
 参考文献
  学研 「よみがえる日本の城 1」
高橋敏夫著 「キリシタン大王 高山右近を追え」
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