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2020年07月15日08:41

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仏教の思想

しっかりしている頼れる人を見ると甘えが出るのは確かだと思う。

であれば、成長過程のどこかで、自分はもう大人なんだから、しっかりしなきゃ、と決意した時から、つけあがる者が現れることになるだろう。

誰だって甘えたいという欲求を一生懸命我慢しているからだ。

いじめというのも甘え欲求のしからしむるところに他ならない。

すべての根源に甘え欲求があって、それが抑圧されるならば、その欲求不満は怒りに形を変えて、怒りを抑えていると、晴らしたい鬱憤は弱い者いじめに向かったり、憎しみや怨念や恨みや妬みや嫉妬など、抑えれば抑えるほど、どす黒いものにどんどん変容していって、黒い心の中にしか、仏教の説く慈悲というのも、顕現しないのだろうと思う。

つまり仏というのは醜いどろどろとした人間で、いわば泥沼の中にしか咲かない蓮華の花なのだ。

甘えたくても甘えられないときに反抗したくなる、それが反抗期の不良中学生だったりするのだ。

不良中学生が暴力的であるのには、そういう訳がある。

それで、兄は中学でいじめられて、自分は人から嫌われる人間なんだと思い知らされて物凄い絶望を経験したのだけど、思うに、もし僕が兄より先に生まれていたとしたら、僕が学校でいじめられていたのではないか、と思うのだ。

もし僕が兄より先に生まれてきて、家庭環境内で兄に痛め付けられることなく無傷のままで外部環境に出て行ったとしたなら、そこでいじめられていたと思うのだ。

僕が学校ではいじめられなかったというのはそれだけ頼りない人間だったから、周囲は僕に対して、甘え欲求が形を変えたものである、攻撃性というのも、セーブできていたのだと思う。

それだけ、労わり守るべき、か弱い者だったのだ。

それで、同じ両親の遺伝子を受け継いでいる、兄と僕に、生まれつきの個体差というのは、そんなにあったようには思えない。

生まれ順が違うがゆえの後天的に形作られた性格の違いを、度外視すれば、とても似ていると思う。

僕が中学校に通っていた時にも、ちょっと気に食わないことがあるとすぐクラスメイトを全力で殴る不良中学生と席が隣り合っていたけど、僕には、お前は絶対に殴らねえ、と言っていた。

兄は、中学校でいじめられて、死に物狂いになって考えて、強さというのは、自分以外の者の悪意を善意と解釈して、清濁併せ呑むことだ、という知見に到達した。

厳しく叱咤激励されたら、それを愛の鞭と受け取って感謝する、その解釈の仕方は、母が兄に教え伝えた、キリスト教の思想に他ならない。

すべては神の愛で、愛の反対は憎しみでなく無関心だ、とマザーテレサも言う通り、愛ある関心を寄せているからこそ、愛が憎しみに転化する、というふうに、憎しみも愛の一部であるわけで、いじめと解釈できるような仕打ちを受けても愛の鞭と受け止めて、厳しく鞭打たれたら教育的配慮と受け取って、神は乗り越えられない試練を与えることはないと信じる。

そう信じる強さを、喪失してしまった時に、兄の解釈と正反対の解釈である、「道徳とは弱者の強者への復讐である」みたいな、善意を悪意と解釈するニーチェの人間観に、陥って、自分以外の者たちへの憎悪が心理の基調になってしまうのだ。

神は乗り越えられない試練を与えることはない、と牧師は布教するのだろう。

しかし、乗り越えられないくらいハードな試練がやってきて、自分に負けてしまうことは、実際の人生には、とてもありふれていること。

ニーチェのように解釈したくなる心情も痛いほど分かっていても、そのような解釈に陥って世の中への憎悪によって思想が支配されてしまっている者の気持ちも尊重した上で、自分はそういう思想は所持すまい、と自戒している、兄だって、これから先を生きていく過程で、人生もっとハードモードになったならば、ニーチェ化し得るのだ。
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