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2020年06月28日06:35

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幸せな結末

否定は一つのものを多くのものにするのに対して肯定は多くのものを一つのものにする。

つまり肯定とは統一乃至統合のことで、否定されながら育ったために統合失調症を患っている患者において観察されるように、一つの心全体が意識によって抑圧否定されて粉々の細片へと砕け散って多くの細部をなしていることによる繊細過ぎる感受性のことを無意識と言う。

このような繊細さやデリケートさのことを女々しさと通常呼んでいるのだ。

つまり、女こそ一つの全体を多くの細部にして、男こそ多くの細部を一つの全体にする、というパターンの逆転が、ここに見られる。

逆転とは、極端な男性脳仮説で説明される自閉症の認知障害を特徴付けるものとして「木を見て森を見ず」という喩えで言われているような、男は心全体を物質のように部分的に見るという話とは、事態が逆に転じている、ということだ。

すなわち、無意識を陰として、意識を陽として、「陰極まれば陽に転ず」で、意識から無意識へと下降して無意識からさらに下降して行くと意識の上から意識へと下りて来る、という反転があるのだと思う。

気絶や失神と医学で呼ばれているような、感じ過ぎると何も感じない状態に反転してしまうという事例が、示していることだ。

光子をはじめとする光速度運動する素粒子のことを光と総称することにすれば、重さのない光が滅茶苦茶一杯集まって凝り固まったら重さのある物質粒子になるのだけど、三次元の空間をトランポリンのように水平に張られた二次元のゴム膜面に喩えて、その上に物質という重りが乗ることによって下方向に膜面を膨らませて出来た斜面を、周囲の物質が転がり落ちることとして、重力現象という落下現象を、説明する、アインシュタインの相対性理論に従って、物質密度無限大の大きさのない一点から宇宙は始まって、我々の住む宇宙空間は密度を薄めながら今までも膨張拡大して来て、今からも膨張拡大して行って、物質が光を放出し切って、この世には重さのない光しかなくなった暁には、宇宙空間は一点に縮み切っている、というふうに、宇宙の終わりが宇宙の始まりである、とする議論が、ペンローズのサイクリック宇宙論である。

秩序とは多くのものが一つのものになっている状態で、無秩序とは一つのものが多くのものになっている状態で、宇宙の無秩序化の流れに逆らう地球上の秩序化の動きを、生物進化と呼ぶとして、すべての物に少なくとも無意識的段階の心ならばあって、それが生物進化の頂点である脳という段階に至って意識化されたのだとすれば、意識が秩序で、無意識が無秩序で、意識が無意識化し過ぎれば元の意識に戻っているという反対者の一致が成り立っているわけだ。

世界の99.99%以上は無生物界で生物界は0.00%以下なのに、なぜ自分は選りに選って生物なのか、と言えば、生物とは地球上の海の水の中の一滴の油から進化したもので、油が水と棲み分けたいという本能的欲求に逆らう棲み分けるわけにいかないという環境が突き付けて来る要求を内面化したものである理性によって抑圧否定された本能が感情に変容したからで、感情を感じるということは、生物にしかありえないことだからである。

つまり、生物が死んで無生物になれば、死ぬ途中では激痛を感じても、死に終えたら何も感じない状態に転化する。

それを永眠と呼んでいるのである。

神は世界創造後も世界進行に介入して神の見えざる手を行使して奇跡を起こすことがあって、生物というのは神が思し召した奇跡に立ち会っている現場なのだ。

水と油の単なる総和以上の全体を部分の総和以上の全体たらしめている、部分の総和に対するプラスアルファとして、本能と理性の葛藤たる感情はある。

理性と感情と本能の三層構造を、意識と前意識と無意識の三層構造として、深層心理学者フロイトは、捉え直したのだけど、前意識が形成されているかされていないかが生物か無生物かの違いである。

本能は外界の刺激を感じるからこそ反応を返すのであり、世界が不変不動の静止空間でないということは世界全体に感じる心はあるということだけど、感じていることに気付いているレベルである前意識が形成されていないから感じていないも同然なのだ。

感じているレベルが本能であり、感じていることに気付いているレベルが感情である。

本能が、感じているレベルで知っていることを、認知しているレベルが、理性である。

かくて、無生物界とは、水は水同士で、油は油同士で、棲み分けたいという意志通りに行っている、極楽で、生物界とは、水と油が棲み分けたいという意志通りに行っていない、地獄なのだ。

我々は、身体全体の健康のことには気付きもしないで、靴擦れのする小さな箇所が気になるといった具合に、意志通りに行っている全てのことは気にも留めず、意志通りに行っていないほんの小さなことを気にするものなのである。

つまり、なぜ自分は生物なのかと言うと生物にしか気付いているレベルがないからだ。

このような、気付いているレベルを生ぜしめたのは、神の意志が思し召した奇跡である。

我々人間の自由意志は神の意志である。

つまり、今から起きる事は今まで起きた事のみに起因するのではなく、「原因なしに事を起こす能力」と定義される「自由意志」を、我々人間をはじめとする生物は、行使し得る。

たとえば、クローン羊はどうやって作るかと言うと、乳腺細胞を摘出してシャーレに入れて、飢餓状態にして、生死の瀬戸際に追い込んで生きんとする意志を刺激して死に物狂いにさせる。

そうすると、自分に勝って火事場の馬鹿力を発揮してパワーアップして潜在能力を顕在化させて夢の若返りを実現させて何にでもなれる万能細胞になるグループと、自分に負けて滅びて死に絶えるグループに、二極分化するのである。

前者のグループがクローンを再生するのだけど、このように、過去のどんな出来事も、自分次第でプラスに転じさせることもマイナスに転じさせることもできる。

意志は、プラスの現実を選ぶか、マイナスの現実を選ぶか、選択の自由を、行使し得るのだ。
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