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2020年06月16日03:54

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心はなぜ苦しむのか

メンヘラというのは境界性パーソナリティ障害とか自己愛性パーソナリティ障害とかに代表されるのだけど、境界性のメンヘラも自己愛性のメンヘラも、多動性があるためにアクティブキチガイと呼ばれる。

それで、僕は彼らのように活発ではなく大人しいタイプだから、表向きは行動が派手な彼らとは好対照をなすのだけど、僕も本質的にはメンヘラなのだと思っている。

つまり、考えたいときに考えたいだけ考えていていいということを環境が許してくれているからメンヘラのような衝動性が表立ってこないだけで、モラトリアム期間を延長して貰って考える時間を与えられて根気強く考える力を培ってきて、四六時中考えている状態が常態になっている今となっては、考え事がはかどっている最中なのに考えを抑圧して行動に移らなければならないということになったときに、行動しているけれど行動に身が入っていなくて行動が疎かになっているという中途半端な状態が実現して、かき乱された心から不安を心理の基調とする本来の自分が顔を出してくるのだと思うのだ。

自己愛性よりも境界性のほうが不安というのは強く、見捨てられ不安が強くて、見捨てられる恐怖が死の恐怖に等しいくらいに強烈であることによって、見捨てられないためになりふり構わない死に物狂いの努力をする、ということが、境界性の行動面として現れてくる。

境界性の見捨てられ不安というのは、たとえば子供時代に母親に「あんたなんか産まなきゃよかった」などという存在を否定されるような決定的な一言を言われ続けながら育ったために、見捨てられないという安心感を育むことができなかったことに、起因しているわけだけど、信頼が猜疑に変わるときに、世界の表向きの顔を真に受けて善意の解釈で世界を包み切っていて悪意の存在を想定し得なかった、自分にとって、世界は裏返って敵意に満ちた反世界になってしまうわけだ。

考えずに行動できている人間の心理の基調が信頼で、行動せずに考えてしまっている人間の心理の基調が猜疑で、僕は信頼と猜疑の間を行ったり来たりして揺れ動いているのだけど、信じることができないからこそ、愛情を試す行為をやめられなくてどこまでもつけあがって最終的に愛想を尽かされて捨てられてしまう、ということになってしまうのだろう。

そう言った、境界性の要素を備えている人間との感性の一致というのは、間違いなく僕の中にあるように思う。

僕も境界性の要素は共有しているからだ。

境界性という言葉は、神経症と精神病の境界線上の症例ということを意味している。

神経症というのは、感情を理性が抑圧している状態のことを言っていて、理性が感情に接しているからこそ感情への抑圧という理性によるブレーキが利くのに対して、感情という下のものを理性という上のものが抑圧しすぎて、上から抑え付けられたものが下のほうに行き過ぎた結果として上のものと下のものの間に隙間ができて、上下二つが接しなくなって抑圧というブレーキが利かなくなってしまった状態のことを、精神病と言う。

精神病とは、統合失調症や躁鬱病のことだ。

だから、境界性というのは、自分を否定する、親をはじめとする自分以外の者を、内面化した結果として、本来一つだった自己が「否定する自己」と「否定される自己」という二つに自己分裂してしまっていることを、指し示して、言っていて、二つが接していないようでいて接している、そういう状態のことを、言っている。

二つは再び一つになることを目指して努力しているというダイナミズムがそこにあるのだけど、それが己を振り返っているということで、それがメンヘラ特有の一心不乱に悩んでいるということで、言い換えれば考えているということだ。

考える人は疑う人だということを、先程述べた。

疑えば不安になる。

暗くて弱い心が「不安」で、明るくて弱い心が「優柔不断」で、暗くて強い心が「頑固」で、明るくて強い心が「元気」だ。

僕が「暗くて弱い不安な人」だとしても、「明るくて強い元気な人」にはなろうとしても中々なれそうもなくても、前向きに自分を高めるべく怠けることなく努力していきたいと思っている。

そのために、現状を認識して、現在地から見てどの方向に目標とする先があるかを認識して、そして、向かうべき方向が見えてきたら、あと目指す方向へ向かえばいいだけだ。

「否定する自己」と「否定される自己」という二つによって境界性が特徴付けられているのだとすれば、否定は一つのものを多くのものにするのに対して肯定は多くのものを一つのものにするわけだから、そして一つの心全体が粉々の細片に砕け散って多くの細部に分かれてしまっていることによる、繊細すぎる感受性こそ、不安の本質だから、「否定する自己」のほうを否定して「否定される自己」のほうを肯定して、多くの部分を再統合して一つの心全体を再現してやれば、不安は解消されて元気を取り戻せて、社会に適応して行動して生きていくことができるようになる。

元気があれば行動できる。

それが僕の人生の目的だった。
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