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2020年06月14日18:18

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心が脳の外にある病

境界性パーソナリティ障害にせよ、演技性パーソナリティ障害にせよ、反社会性パーソナリティ障害にせよ、回避性パーソナリティ障害にせよ、強迫性パーソナリティ障害にせよ、それぞれについての精神医学の各論があるけれど、それはさておき、精神医学の総論についての説明を以下に試みようと思う。

心の病を患っているとはどういうことか。

否定されながら育ったことによって、自分を否定する親をはじめとする他者を内面化した結果として、本来一つだった自己が「否定する自己」と「否定される自己」という二つに自己分裂したところを指し示して、心の病を患っていると言う。

「否定する自己」は本来の自己ではないという意味で偽りの自己で、「否定される自己」は本来の自己であるという意味で真の自己だ。

だから、偽りの自己にしがみつくのをやめさせて真の自己に立ち返らせることが心の病の治療になる。

偽りの自己というのは親をはじめとする他者によって本能を抑圧否定するために植え付けられた理性である。

理性による本能への抑圧否定が行き過ぎれば、統合失調症や躁鬱病をはじめとする精神病になる。

理性と本能という二つの葛藤としての感情が欠如していることによって二つの間にあってそれらを一つにつなぐ三つ目がないことを以って、一つの自己の二つへの分裂と言うのだけど、理性と感情と本能の三層構造を、意識と前意識と無意識の三層構造とする、深層心理学を、打ち立てた、フロイトの用語に従えば、念頭の意識内容を抑圧否定しすぎることが板に付いてしまっていることによって、一段下に抑え込んで前意識という頭の片隅に置いておこうとしたら、もう一段下にまで抑え込んで無意識という忘却の彼方に追い払ってしまう、という悪い癖を、精神病と言っているのだ。

頭で考えているレベルである理性は、個体本来の本能的欲求に反するものとしての環境が突き付けてくる要求を内面化したものだから、対外的なもので、それに内心が付いて来れていないことこそ、精神病患者にとっての根っこをなす問題で、頭で考えているレベルに心で感じているレベルが付いて来れるようにするためには、前意識が欠落していることによって意識と無意識という二つのレベルに分裂している自己を反省して、感じているレベルでは知っていることを認知のまないたの上にもたらさなければならない、と鬱病の認知行動療法では説かれている。

外に対して誇大な自己が剥き出しにされていて、それに内心が伴っていないから、言い換えれば、頭で考えているレベルに心で感じているレベルが自己一致していないから、誇大な自己は外界の他者たちにどう見られているかに無感覚な裸の王様になっていて、外界の他者たちとの交渉に明け暮れていても心の交流が成り立たないからこそ、心と心が触れ合わなくて社会から疎外されて引きこもって寝た切りの鬱病患者になってしまうのである。

極端に対外的であると同時に極端に内向的であるという二極端に引き裂かれた自己を統一できなくて、内外の自己不一致を解消できなくて、それで頭の中の自分の位置付けをいくら高めても体は付いて来ない、という意味で、行動しなきゃと思っていても行動できないという苦境に陥っていることを、鬱病と言うのだ。

頭で考えているレベルに体で感じているレベルが付いて来れるようになって、行動する元気を取り戻せれば、社会に適応できるのだけど、そのために、対外的な自己から内心が抜け落ちていることを自覚にもたらして、内外の自己一致のために、外に向かう「否定する自己」のほうを否定して、否定の否定で二重否定で、本来の自己である「否定される自己」のほうの肯定へと転じて、ありのままの自己を認めてあげることができるようになれば、行動できるようになって、鬱病が治る、というのが認知行動療法である。

心理学者アドラーは、自分本位から他人本位へ気持ちを切り替えることができれば鬱病は治る、と言っている。

自分本位とは、対外的な自己だけが他者と接していてそこに内心が伴っていないことを言うのに対して、他人本位とは、内外二つが一つながりをなしていることによって内心が外界の他者たちの心と触れ合えて、他者たちの喜びを自分の喜びとすることができて、他者たちとの関わりの中に喜びを感じることができて、他者たちに貢献することに張り合いを感じられる、そのような心性のことを言う。

つまり、心が二つであることを本質とする自分本位を卒業して、二つを統一して他人本位になれば、やりたいことを張り切ってやっているままがやるべきことをやっていることになる、というふうに、社会に参加することが苦痛でなくなって、鬱病を克服できて、励まし合って元気を与え合う社会に仲間入りできて、行動し続けることを可能にする仕組みが出来上がる。

心が一つでなく二つであるとは、他者への共感性や感謝の気持ちなどをはじめとする真心が欠落している分を虚礼で補っていて、礼儀正しさと丁重さの仮面でしか人と接することができなくて、心と心が直に触れ合うことがなくて、打ち解けることができないとか、もしくは、裏腹とか腹黒とか、そういうことだ。

否定や憎しみが一つのものを二つのものにするのに対して、肯定や愛が二つのものを一つのものにするのだとすれば、自分を愛せない人は他人を愛せない、ということが、言えるわけだけど、ここで注意すべきことは、ありのままの自分を愛するということは、いわゆる自己愛とは違う、ということで、自己愛性パーソナリティ障害において自己愛とは、ありのままの自分を愛することができていなくて、偽りの自己を真の自己だと思い違いして、それを愛している状態が常態になっていることを、言っていて、自己愛性パーソナリティ障害の患者は、プライドが高く共感性が低いことによって、特徴付けられている。

偽りの自己とは、ありのままの自己を否定する自己のことだから、それを否定しなければ、否定の否定で二重否定で、ありのままの自己を肯定する、ということは、可能にならない。

ありのままの自分を肯定する、ということが、心が健康になって、他者たちとの触れ合いによって心が温められたり癒されたり元気付けられたりすることが可能になって、鬱に陥ることなく、社会の動きに自分の動きが付いていける、という連動関係が出来上がって適応の形が出来上がるために、必要なことだ。

外に出ようとすれば内心が脱落して引っ込んでしまうけれど、外に出ようとしなければ自ずと表面上の愛想でない内心からの温もりが外に滲み出てくる、そういうパターンの逆転こそ、認知行動療法の目指す先なのである。
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