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2020年06月06日15:16

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実践の総体としての世界

コミュ障を治すには、相手に応じた話し方を身に付けなければならない。

話し方教室で教えられているような手っ取り早いテクニック論に走った方法論も参考になるけど、僕は、自己の客観視の困難を抱えている、一統合失調症患者として、こういうふうに話していても分かりづらいというメタ認知の機能が壊れているから、能力の不足を補うためのメタ認知の努力によって、恥と自己嫌悪で悶絶して、自己嫌悪が自分を醜悪な存在と感じる感じ方になって、さらに深まって自分を罪深い存在と感じる罪悪感になるまで、ちゃんと苦しむ必要があると思うのだ。

僕は、行動する前に考えてしまうタイプである。

思うに、考える前に行動してしまうタイプのほうが、労働や生活に物理的に忙しい身として、環境適応的で、善良でありうるだろう。

その意味では、適者生存というのは、考える人よりも行動する人のほうが偉いということを意味すると思う。

僕みたいな、頭でっかちで行動力がない者が、行動する哲学者になろうとしたら、ちょっと行動しただけで、すぐに高慢で傲岸不遜な人間に豹変して、正体を現して、「俺は誰よりも耐えてきた。だから俺は宇宙一偉い。俺を敬え。」などと言い始めて、かのニーチェのように、社会性をかなぐり捨てて誇大な自己を剥き出しにするのだろう。

本当は、社会に適応して生きている普通の人々に比べて、ちっとも偉くなんかない、卑小な者なのに。

それで、僕が考えに考えるタイプなのは、なぜかというと、僕は心が解体して単純化している分を補うために思考の脈絡が複雑化する必要がある、という言い方もできる。

僕のような、単純そうで複雑な人物は、文豪のように精神が複雑で、文豪のように人生を複雑に考えすぎて自殺してしまうタイプで、多くの単純な要素が絡み合って一つの複雑な全体をなしているからこそ、全体は部分よりも大きいということで、単純な部分の外に、はみ出している、共感されない存在で、だから理解されようとすることは傲慢である、という他者たちの視点を、取り入れて、説明して分からせようとすることは、自分の世界の理解の仕方で他人に世界を理解させようとすることだから、傲慢だ、という観点を持って、そして、要点をかいつまむなり、縮約された表現で言い直すなり、そう言った、対外的な自己というものを外行きのものとして作ることに、必死になって、それで初めて、コミュ障が治って、社会化されるのだろう。

考える前に行動してしまう人というのは、単純な精神構造の持ち主で、思考の領域において手早く小さくまとまれて、さっさと悩みにケリを付けて、行動に移れるのだけど、そのような、人知れず悩み抜き人知れず解決して表向きは何事もなかったかのように明るく振る舞って見せることができる、普通の人間のほうが、偉い、ということなのだ。

偉いか偉くないか、世間の基準に合わせて、自分を物差しで計るならば、自分はあくまでも普通の人間に歩み寄らなければならない側だ、と分かるだろう。

本当は、この思い分かってもらいたくてたまらない。

でも、その思いのありのままを長文にして展開するのでなく、圧縮して短い一言にぎゅっと詰め込んで、論理的で抽象的な話し方を具体的で分かりやすいと感じさせる話し方に落とし込んで、それでやっと、普通の人間として振る舞えていることになるのだと思う。

以上は、文字上のものにすぎない文学を、実践の総体としての世界に、正しく位置付けて、傲慢な僕が謙虚になるために、心得るべきことだった。

総体として無価値な人生だったとしても、ちょっとづつでも、僕は前に進む。
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