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2020年06月05日06:31

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メンヘラについて

恋というのは片想いを両想いであるかのように思い違いさせる狂気で、境界性パーソナリティ障害の女の子が男に愛想尽かされて捨てられてしまうまで愛情飢餓の隠喩表現による試し行為をやめられないのも、男にとって愛情を試されることがどういうことであるか、分からなくて、父性本能をくすぐられて愛情表現に愛情表現で応えてあげたくなることだ、とでも思い違いしているからだろう。

境界性パーソナリティ障害の女の子は、その意味では、自分とは違う者としての自分以外の者の立場に立って考えることができない。

相手の立場に立って、相手から見て自分がどういうふうに見えているかが分からない、つまり、自己を客観視するメタ認知の能力が欠如している、ということだ。

なぜこのようなことが起きてくるのであろうか。

境界性パーソナリティ障害や自己愛性パーソナリティ障害に代表される、メンヘラには、メンヘラになったいきさつがあって、否定されながら育って自己否定するようになって、自分を否定する自分以外の者を内面化した結果として本来一つだった自己が否定する自己と否定される自己という二つに自己分裂した、ということがある。

言い換えれば、自己を見る他者の視点を取得することによって、見る自己と見られる自己の二つに自己が自己分裂した、ということだ。

肯定されながら育った健常者においては見る自己と見られる自己の二つは一つであるのに対して、二つが一つにくっついていないところに、否定されながら育ったメンヘラの本質はある。

見る自己と見られる自己という二つの間を隙間が隔てていて、見られる自己を覆い隠して見えなくさせている隙間部分があるからこそ、見る自己が見る自己として機能しないのだ。

自己が他者によって見られる側に回っているときに、健常者にとっては見る自己と見られる自己は隙間なくつながって一つになっているから、見られる自己は見る自己にとって覆い隠されていない。

だから自己を客観視できるのだ。

家庭環境で肯定されながら育って心が二領域に分かれていない健常者は、外部環境に出て行ったときに、自分を見る自分以外の者の視点を取得して、自分と自分以外の者という二つを同じ一つの領域内に入れることができるのに対して、他者の視点の取得が早すぎれば、他者の視点を自己内に取り入れることができなくなってしまう、という逆説が成り立つ。

つまり、メンヘラは、あまりに早く大人になった結果として、他者の視点から見た自己が分からなくて、自分とは異なる感じ方をしている者としての相手を認識できなくて、自分が相手のことを好きだから同じく相手も自分のことを好きなはずだ、という思い込みに陥って、慕われることが煩わされることである相手の気持ちをそっちのけにして、ストーカー化してしまう。

成り立った認識を何度でもなし崩しにして、片想いを両想いと勘違いさせる、異性に対する恋という狂気は、自分と同質な他者にでなく自分と異質な他者に惹かれているにもかかわらず、その他者と自分を同一視して、自他の区別を消失させて分別をなし崩しにして、異なる者を混同する、そのような憧れの対象に対する妄想的な心性である、と言える。

頭で考えているレベルと乖離している、心で感じているレベルで、そういう水面下の無意識的過程が深く静かに潜行しているからこそ、頭で考えているレベルで、いくら分析的な知性を働かせて全体を細かく分けて細分化しようが、全体の内部分節構造は、心で感じているレベルに、落とし込まれた時点で、その都度、なし崩しになるために、考えているときは分かっていることを考え終えたら分からなくなる、というふうに、考えなくとも直感的に分かっているレベルは形成されていかず、学習できず、実感の沸かない考えのレベルで妄想がどんどん念入りに考えられた詳細な妄想体系になっていくばかりである、ということになるわけだ。

頭で考えているレベルと心が感じているレベルという二つの分離が、見る自己と見られる自己の二つの分裂に、対応する。

二つをつなぐ、もう一つを、形成して、意識と無意識という二極端の間の中間をなす、そこに、安定して停留して、そこでくつろげるようになって、無意識という忘却の彼方の一歩手前である前意識に踏みとどまれるようになって、極端から極端へ走ることをやめて中庸を守ることを知ることこそ、メンヘラにとっての余儀なくされた課題だ。

自分を否定する自分以外の者を肯定することから人生が出発して、自分を否定して自分以外の者に憧れて、それと同時に憧れの対象と自分を同一視して、なりたい自分のイメージとそれにすでになっている自分のイメージが同時にあって、なりたい自分になるためにはどうすればいいかという目的のための具体的方策に無関心で、途中経過を踏もうとせずに一気に目標に到達することを期待していて、またすでに目標に到達していると錯覚しているから、目の前にぶら下げた人参を目掛けて走っていく馬みたいに葛藤がない、そういう対象へのダイレクトなアクセスにこそ、メンヘラがポジティブキチガイと呼ばれる所以がある。

心で感じるレベルと頭で考えるレベルの間に隙間があって、感じる心の衝動に、考える頭の理性が、接していないからこそ、ブレーキがブレーキを利かせるものに接していなくて、理性が衝動へのブレーキとならなくて、分かっているようで分かっていないメンヘラは分かっちゃいるけどやめられない、という意味で、理性と感情の葛藤を経験することなく考える前に行動してしまうメンヘラは、アクティブキチガイとも言われる。

それが衝動を抑えられないとか情緒不安定でキレやすいとかということだ。

このようなことを、自覚して反省して、ちゃんと自己嫌悪に苦しんで、変わらない限り、振り回されてほとほとうんざりしている人の気持ちを踏みにじって、メンヘラはターゲッティングしたターゲットを振り回し続けることになる。
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