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2020年06月02日03:54

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駄文

文系の僕の自然な感じ方を否定する理系の兄の不自然な考え方を肯定させられることから人生が出発している、という意味で、僕は本来は文系だけど、僕を外側から表面的に見れば、極端な理系脳に見えるから、発達障害だと誤解されることがある。

だけど、それは、僕を外側から表面的にしか見なければ、僕のそういう一面しか見えない、ということであるにすぎない。

僕が内面化した兄という他者が内面化され切れず表面にしか貼り付いていなくて、その表面は生まれつきのものではないから、生まれつきの発達障害などとは僕は違う。

その表面も僕の一面だけど、外側に見せ掛けられたパッケージによって包み隠された内側に、それとは正反対の中身を隠し持っていて、その中身こそ、生まれつきの僕の本質であるわけだから、生まれつきの発達障害などとは僕は正反対の者なのだ。

確かに、内外という両極端に引き裂かれた自己こそ、発達障害の本質で、内外二つの間に隙間があって、内外の間を隔てる隙間によって内が覆い隠されていて外から見えなくなっていて、内なる本質が潜在していて顕在化してないところを、指し示して、発達障害と言っているのだとしても、内外二つに引き裂かれた自己が二つに引き裂かれ切れていなくて一つに隙間なくつながっている、という点からも、発達障害的なものからは離れている、と言える。

僕ほど、極端と極端の間の距離が大きい者ならば、二極端を一つに統合できていなくて、統合失調症を発症して陽性症状が出ているのが通例であるわけだけど、僕のような、統合失調症的な二つも、健常者的な一つも、兼ね備えていて、二つを統合できていないようでいて一つに統合できていて、二つと一つで合計で三つをなしている、という意味で、精神の規模が大きすぎる存在は、宇宙人とか不思議ちゃんとかと呼ばれるべきような、共感されない存在だから、理解されようとすること自体が傲慢だ、と思われてしまっても仕方ないだろう。

だからこそ、複雑なことをいつまでも言っていても世間は理解してくれないのだから、発達障害という単純化された分かりやすいキャラを演じて、俗受けを狙うべきだ、と言って生き方を僕に指南してきた人もいる。

だけど、そういうことではないのだ。

僕の精神の規模が大きいとは、どういうことかと言えば、容器の容積が二倍大きいとして、内容が同じ量だとすれば、密度は二分の一に薄まるわけで、だからこそ、僕の意識は、希薄で、朦朧としているのだ。

そういう大風呂敷を広げすぎたがゆえの意識障害のことを、ボケと言う。

優雅な家庭で育って平和ボケしているというふうにも言える。

ボケだからこそ、自分の考えがピンと来なくて、考えて分かったことが考えなくても直感的に分かるレベルに落とし込まれることなく、考えているときは分かっていることを考え終えたら分からなくなって、同じことを蒸し返して考えていて、思考の歩みの足取りが亀のように遅いわけだけど、いつまでも進歩しないというわけではないのだ。

学習は極めてゆっくりだけど、誰もが悩んでケリを付けたことをものすごく時間を掛けて遅ればせながらケリを付けたならば、そこから先に進めて、一度考えてケリを付けたことは次からは考えなくても分かる直感のレベルに落とし込まれて、そこをすっ飛ばして考えることができるようになるのだ。

言葉をキッチリ敷き詰めて考えることからしか始まらなくても、言語化して明瞭化して認識する思考スタイルを取らなければならない段階を終わらせて次のステージに行くことができる、というふうに、前進するからこそ、誰しもが初心を忘れていって子供心を失った大人になる。

その意味では、表面化させられたものがなかなか裏に回らない僕は、永遠の初心者とか哲学する赤ちゃんなどと呼ばれるべき人間なのかもしれないけど、僕だって、いつまでも先に進んでいないわけではないので、誰もが悩んでケリを付けたように、いつか問題にケリを付けることができる。

悩みがループしているようで、ループはアングル変えて見ればらせんを描いて上昇しているのだ。

そういう人までをも発達障害と診断してしまって、何でもかんでも発達障害に仕立て上げてしまう風潮というのは、現今確かにあるけど、後天的に発達障害に似ることを強制されただけで生まれつきの発達障害とは似て非なるものを混同してしまったら、隠れた真実を、言わなくても分かってくれている人もいても、もし見抜いてもらえなくて背景を深読みしてもらえないときに、そういう人々とのコミュニケーションギャップというのは、生き辛さというのは、すごくあると思う。

そういう分かってくれない人たちに迎合して、不思議ちゃんの感性を抑圧して、心にもない模範解答的なことしか言わない優等生になってしまって、僕は発達障害だ、と自己限定して、自分ではない者を演じるよりは、対外的な自己と内心が自己一致している愛のある人間になることを目指すことのほうが、大事なのではないか。

逆に、僕が見せ掛けだけが外へ打ち出された張りぼてのような愛のない人間になろうとして努力したら、そして仮に実際にそうなったとしたら、僕の周りの人間は、そういう僕を利用しようとしているだけの打算的な人間だけになってしまうだろう。

それをスピリチュアルの世界で引き寄せの法則と言っているのだ。

僕は、良い意味でも悪い意味でも、特殊な環境で、育った。

精神の規模が大きい、ということは、子供の頃に、僕が口を利くことが唯一許されていた兄の言うことをいくら聞いても、兄が何を言っているのかさっぱり分からなかった、僕は、如何なる価値観にも染められずに育ったために、それ以外の価値観を排斥する狭い価値観の持ち主にならなかった、ということでもある。

それだけに、自己実現できた暁には、幅広い価値観を網羅する人間になれる、ということだ。

もし、僕が兄より先に生まれていたとしたら、社会的には成功していたのかもしれないけど、エリートの自己陶酔が鼻持ちならない偉そうな哲学教授になって「君はどこの馬の骨かね?」などと言って自分以外の者を排斥する排他的な者になっていたかもしれない。

色々な理不尽を引き受けなければならなかったけど、自分に有利な不公平も不利な不公平も飲み込んで、前向きに生きていこうと思う。
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