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2020年04月06日22:23

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言葉と言霊

僕は統合失調症患者だ。

統合失調症のハンドブックを読めば、統合失調症患者の妄想を否定してはいけません、患者が否定された箇所について自分なりの辻褄を付けようと考えて妄想の世界をいっそう詳しくしてしまうからです、と、健常者に向けた、患者への接し方が、書かれてある。

しかし、僕は、辻褄が合わない支離滅裂なことを言う統合失調症患者とは正反対のタイプで、僕の思考過程における理路整然とした一貫して筋道立った論理は、僕がただの統合失調症患者と違い、妄想によって現実が覆い隠されて見えない統合失調症患者でありながら、その妄想を否定する健常者の視点も兼ね備えていて、健常者によって妄想を否定されなくても、自分で自分の妄想を否定して、妄想体系をどんどん念入りに考えられた詳細なものにしていくタイプである、ということを、物語っている。

統合失調症患者でありながら、それとは正反対のタイプでもあるのだ。

思考が直感を根拠とすることができないことによって妄想になる、すなわち、感じていることについて考えられないのが、統合失調症的パーソナリティであるのに対して、感じていることについて考えてしまうために鬱になる、そして、鬱に対する反動形成として躁的防衛をおこなうのが、躁鬱病的パーソナリティで、統合失調症的パーソナリティとそれとは正反対の人格である躁鬱病的パーソナリティを、兼ね備えているのが、僕なのだ。

したがって、心で感じているレベルが無意識で、頭で考えているレベルが意識で、無意識という地下の井戸水を汲み上げて意識にもたらせるようになるために、無意識と意識という両極端の間の中間をなす、前意識を形成していくことこそ、統合失調症の治療である。

前意識の心的内容は、外在的な他者に認められないような考えを内面生活として営んでいるレベルで、その内心を外在的な他者に認めさせるための説明として組み立てて、言語化することによって明瞭化して認識する思考スタイルにもたらすことは、敷居をまたいで前意識を意識に高めることである。

ここで、高い敷居をまたぎ越して内心の思考を対外的なものに仕立て上げるときに、前意識を介して接していた、言語を言語たらしめている、意識における「意味するもの」と無意識における「意味されるもの」は、接しなくなってしまう。

すなわち、自己外化によって「意味するもの」に「意味されるもの」が付いて来れなくなって、内心から真心が抜け落ちてしまい、「意味するもの」は無意味記号に堕する。

言葉の真意は無意識という忘却の彼方に追い払われて、意識が深いようで意識障害を来たして、朦朧とした意識における言霊が抜き取られた言葉は魂の抜け殻になるのだ。

かくて、外観ばかりを気にして体裁を取り繕うことに汲々として内実を喪失した僕は、自分以外の者に分からせる説明としては立派でも、自分は何を言っているのか分かっていない、そういう説明しかできないことになる。

これが、対外的には緊張し切っていると同時に内心は弛緩し切っているという両極端に引き裂かれた自己を統合できない、統合失調症と言われる所以である。

このように、外に向かえば内から滲み出る温もりも滲み出なくなってしまう。

逆に、内に向かおうとすると意図せずして温もりが外へ滲み出るのだ。

これが、安永浩の言う、パターンの逆転である。

偽りの自己にしがみつくのをやめさせて真の自己に立ち返らせることこそ、安永浩が狙いとした、統合失調症を治すことに、他ならない。

統合失調症とは、自分を愛することができないから他人を愛することができない、ということで、自分を愛せるためには、真偽二つに引き裂かれた自己を統一することである。

憎しみが一つのものを二つにするのに対して、愛は二つのものを一つにするからだ。

確かに秘密を内心に保持していることは苦しいことである。

だけど内面生活として営んでいる考えを、自分一人の中に抱えて悶々とするうちに、苦しさに耐えているうちに、慣れて平気になってきて、それが、とりもなおさず、意識と無意識という両極端の間の中間をなす前意識を形成していることになるのだ。

それこそは、対人恐怖症を克服して、打ち解けられる人間になること、浮いている存在が溶け込めるようになること、表出に躍起になることをやめて、及ばざるは過ぎたるにまされり、と心得て、表出過剰だった自分に抑制を利かせられるようになることだ。

僕は、否定されないから否定し返さないだけだけど、自己否定し続ける、すなわち、自覚上の自己を否定して、自覚できない無意識レベルの自己を肯定する、ということに、取り組み続ける。

他人に否定されたら自分を棚に上げて他人を否定し返すモードになるだろうけど、それは、自他のうちの一方を肯定すればもう一方を否定することになるというジレンマを乗り越えていないからだ。

肯定か否定か、白か黒か、二つしかない、とする、二項対立図式自体に内包される、否定性に、気付いて、肯定も否定もやめて、白黒ハッキリさせるのをやめて、グレーをグレーのままで受容するしかない、という結論に帰着することだ。

それこそ、程々のことを言っておけばいいのだ。

中庸とはそういうことである。

キャバ嬢のように表向きの顔が他者を肯定することに特化すれば腹は裏腹に黒くなって、表裏が激しくなってしまう。

自分自身のうちにあってアットホームでいられること、自分自身においてゆったりくつろげること、リラックスすること、それが何よりも、僕にとって、大切なこと。
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