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2020年03月01日05:12

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人生の目的

ニーチェはニーチェなりに俗世を表面的に見て俗世を理解したつもりになってこれが俗世の価値観だとして象牙の塔に知らしめようとしたのだけど、ニーチェはニーチェに対して見せる俗世の表向きの顔を見ていたにすぎず、背後に溢れんばかりの優しさという裏があることを、否認していた、ニーチェは、背後世界論を否定した。

それに対して、僕は、裏しか見ていないのだけど、表面か裏面かの違いこそあれ、一面的にしか物を見れていない、という意味では、僕は、ニーチェと同じ穴の狢で、表か裏かの二つしかないのでなく、表裏一体という三つ目がある、ということに、気付くことこそ、肝心要である、ということを、ヘーゲルの正反合の三つで論じる弁証法は、言っていたのだ。

ヘーゲルによれば、赤いきつねと緑のたぬきの化かし合いを眺める天邪鬼という三種の動物がバランス良く配合された者になることこそ、人間が完成されることで、きつねは正直な嫉妬の炎の権化であるという意味で赤色で、たぬきは弱肉強食の動物界に住んでいるというおのれの本性を隠して植物の葉緑素を真似て平和そうに見せ掛けているという意味で緑色で、表の象徴であるきつねの立場にも、裏の象徴であるたぬきの立場にも、理解を示す、中立の立場に立つ者こそ、天邪鬼である。

ヘーゲルによれば、赤いきつねと緑のたぬきが出遭うことによって、対話を通じて、お互いに、相手の意識上に顕在化している要素のうちに自分の無意識に潜在している要素を見出して、おのれの無意識に立ち返らされて、自分と相手は、意識と無意識が反転しているだけで、本質的には同じなのに、表面上の違いに囚われていがみ合っていただけだった、ということに、思い至って、意識か無意識かの二極端の中間に、前意識という三つ目があることに気付いて、赤いきつねと緑のたぬきという二つの立場を俯瞰する天邪鬼の立場という一段高い立場に、三つ目の立場に、ステップアップして、中庸を実現する。

このように、他者たちと遭遇して、相手の立場に立って考えさせられる機会を通じて、宿主内に入っている間だけは陽性症状化して暴走して暴れ回って、宿主外に出れば陰性症状化して不活性に陥って行動不能に陥る、ウイルスのような、他者が内面化されていない段階を、乗り越えて、表面にしか貼り付いていなかった他者が内面化されて、内発的なものが培われて、初めて、一人前の大人に、自律的人間に、なれる。

高校卒業までは、集団行動の中で動かされていただけだった、他律的人間は、自律的人間に、大学入学までに、ならなければならないのだけど、僕は、大学の入学式で、浄土真宗親鸞会という宗教団体の学生組織のメンバーに勧誘されて、生きている間に阿弥陀仏の救いを体験しなければ死ねば地獄に堕ちるぞとこっぴどく脅されて、救いを求めて善を行わなければならないという教義を振りかざされて、なだめたりすかしたりされて、尻を叩かれて行動させられて、他律的人間であるままで、大学卒業まで、何とかこぎつけることはできた。

僕にとっては、社会化されるとは、他者を内面化して内発的なものを培って自発的に行動できる自律的人間になることで、それが、僕の統合失調症の治療で、統合失調症とは、意識と無意識の間をつなぐ前意識が欠けていることによって、意識と無意識が分裂している、精神分裂病のことである。

僕の大人のなり方というのは、以上に述べたような、ヘーゲルが指針として示してくれたガイドラインに、沿うものだ。

発達心理学によれば、赤子は、まず言葉を口に出して言いながらでなければ考えられない段階から出発して、ついで言葉を口に出さずとも念頭に思い浮かべながらならば考えられる段階を経由して、しかるのち言葉を口に出したり念頭に思い浮かべたりせずとも考えられる最終段階に至る。

ラカンは、無意識は言語のように構造化されている、と言ったのだけど、ネグレクトされて言語を教わらずに育って、このような、無意識に沈殿している言葉の意味をいちいち顕在化させずとも直に読み取れるという直感を形成することに失敗した、僕は、心が解体して単純化している分を補うために思考の脈絡が複雑化していて、複雑な理屈を捏ね回して難しく考えることからしか出発しない。

しかし、考えて分かったことは、直感のレベルに落とし込まれて、考えなくても分かる自明事になるから、それが、顕在的な意識と潜在的な無意識をつなぐ、前意識を、形成して、行動的人間になることで、それが僕の人生の目的である。
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