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2020年01月26日07:52

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時間を超えて瞬間に生きる

光は光子という大きさのない点粒子からなるのだけど、光にとっては、一点に全空間が収縮し切っていて、光は全空間に同時に遍在している、という意味で、時間経過なしの空間移動が実現していて、光は自分以外の全ての者たちに対して光速度という無限大の速度で運動していることになる、というふうに、速い者にとっては、空間が縮んで、その分だけ、時間が伸びる、ということを、アインシュタインの相対性理論は、言っている。

時間が伸びる、ということは、時間軸をなす数直線の上の任意の二点間の距離が伸びることによって、時間の進行が遅くなる、ということだ。

速度が速くなるにつれて時間が遅延していって、速度無限大で時間が止まるから、光においては、時間が止まっていることによって、時間経過なしの空間移動という速度無限大の運動が実現している。

我々人間は、重さのない光のように軽くなくて、重さのある物質で出来ているために、運動速度が遅いのだけど、ちょうど、新幹線が線路に対して時速200kmで西に向かって動いているとしたら線路は新幹線に対して時速200kmで東に向かって動いていることになるのと同じように、光にとっては、我々物質は、無限大の速さで動いていることになるから、速い者は時間を伸ばして空間を縮ませる、とする、アインシュタインの相対性理論によれば、光と物質とでは、時間と空間とが反転していて、光自身にとっては、延長している時間とは、縦横高さの空間的延長のことで、そして、一点に縮んでいる空間とは、時間のことで、時間は、常に既に、現時点という一点としてしか、与えられない、というふうに、我々物質にとっての三次元の空間は光にとっては点という零次元の存在にされていることによって、六次元の時空は、三次元という低次元の世界としてしか、与えられない、というふうに、光と物質とでは、お互いに相手の内に展開されている異次元空間が外から眺めている自分にとっては圧縮されて目に見えない時間として与えられているのだけど、このような、外部からは内部を伺い知ることのできない、光にとっての目に見えない闇のことを、ブラックホールと言う。

ただし、もしも時間が現時点という零次元に全過去と全未来が収まっているものであるとすれば、時間の流速は光速という無限大の速さをなすことになるけれど、アインシュタインの相対性理論は、時間は一次元の時間軸という数直線をなす、という矛盾を、内包していて、光速も観察事実としては秒速30万kmという有限速度として与えられている、という意味で、理論と現実は、矛盾していて、理論的予想を、いい意味で裏切ることがあるのもまた、現実だから、未来は案外悪いものではないかもしれない、と、可能性を信じることもまた、忘れてはならない心得である、と指摘した上で、理論の赴く先だけを、以下に、追跡していくことにすれば、物質で出来た空間によって光という時間が覆い隠されて見えない状態こそ常態である、ということを、高次元が低次元化されている状態こそ常態である、ということを、アインシュタインの相対性理論は、言っているのである。

この事態を指し示して、哲学者ハイデガーは、自我によって他我が覆い隠されて非我になっているという非本来性こそ本来性である、と言った。

自他の関係は、内省されれば心として与えられる自己自身を、外界の他者たちから見れば、物象という対象として表象される、という関係である。

物心は表裏で、一方が表に現れている限りで他方が裏に隠されている、というふうに、自己が自己である限りにおいて、他者たちが他者たちたらしめられている。

物質の密度に、時間の収縮度と空間の膨張度は、等しい、とする、アインシュタイン方程式という等式によれば、物質密度無限大の大きさのない一点というブラックホールから始まった宇宙空間は、密度を薄めながら膨張拡大してきて、今も膨張拡大中なのだけど、今後も膨張拡大し続けて、光が滅茶苦茶一杯集まって凝り固まって出来た物質が光を放出し切って、密度がゼロになって、宇宙には光しかなくなった暁には、空間は一点に収縮し切って消えている、というふうに、宇宙の終わりが宇宙の始まりであるとする、サイクリック宇宙論が、導かれる。

光子をはじめとする光速度運動する重さのない点粒子は一回転すると元に戻るような自転をしているのに対して、重さのある物質粒子は二回転して初めて元に戻るような自転をしている、という意味で、物質粒子においては、一回転目で元の状態に-1を掛けて正負の符号を反転させることになって、二回転目がもう一回‐1を掛けてもう一回正負の符号を反転させて(-1)×(-1)=1を掛けて元の状態に戻すことで、それゆえに、宇宙は超宇宙を合成している物質粒子という点粒子の一つなのだとすれば、細長い長方形の短冊を180度ねじって一方の端の表をもう一方の端の裏に糊付けした下図のような「メビウスの輪」に喩えられる、物質粒子の自転は、サイクリック宇宙におけるサイクルズオブタイムの比喩にもなりうる、と考えてもいいのかもしれない。
フォト

ねじらずに表を表に貼り合わせたならば二次元の平面上を一回転すると元に戻るのに対して、表を裏に貼り合わせた「メビウスの輪」においては、一回転目で裏に回って二回転目で表という元に戻るように、物質が空間で、光が時間で、サイクリック宇宙がサイクルを一周して元に戻るままが物で出来た空間と心という時間という表裏が反転していることになる、というのが、比喩の意味だ。

すべての表に裏がある「メビウスの輪」と同じように、すべての物象という表象に心があるのだけど、心は、常に既に、顕現することのない、神秘として、裏に隠されている。

自他が表裏をなしている、この在り方こそ、常の在り方である、ということを、世界内存在という哲学用語を用いて、ハイデガーは、言い表して、自分は自分が構成した世界内に住んでいてそこから一歩も外に出ることはなく、他人は他人が構成した世界内に住んでいてそこから一歩も外に出ることはなく、皆一人一人違う孤独地獄で苦しんでいて、分かり合えることはない、一つの心の物象化し合う二つへの自己分裂は克服できない、と言っているうちに、己の言っていることの意味がだんだんピンと来始めて、スローガンとして打ち出していた「One for all.All for one.」という理想社会の実現に燃えていた、若きハイデガーは、現実に打ちひしがれためっきり老け込んだ消極哲学者になっていったのである。
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