mixiユーザー(id:766386)

2020年01月13日06:04

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「萌え」の条件

我々は、自我と他我たちとからなる。

自他が関係し合うに際して、相手の立場に立って考える、ということを、我々は、お互いに、やっている。

対人関係の場面で、無意識のうちに、我々が、やっている、自他の立場を置き換えて考える、ということは、どういうことか、顧みて、もし内省されるならば、心であるような核心は、周辺から眺められたときは、疎外されていて心として感じられなくなっていて、物象という対象にされているのだから、脳細胞が単細胞生物アメーバみたいに触手を四方八方に伸ばして周囲の脳細胞たちと連絡を取り合う連絡網としての脳神経回路網において、脳細胞たちは距離が近いために心を感じ合うことができるから、脳全体の心は、一つにつながっている、という意味で、物象化し合っていないのに対して、多細胞個体の心が細胞社会の集団心理であるのと同様に、個体としての自己も、種社会をなす他者たちと、共感によって心が一つながりをなしていても、自己と他者たちは距離が遠いために、心のつながりを薄々としか感じられない、というふうに、不感症気味になっていて、物象化し合っている、というふうに、心の物象化の度合は距離の関数になっていて、距離間が遠ざかるにつれて、心は心という性格を次第に帯びなくなっていって、どんどん物象化していく、という結論を、導き出して、自分自身にとっては心であるような点粒子は他の点粒子たちとの相互関係においては物象として表象されているから、任意の二点間の相互作用は心の物象化し合いである、というふうに、哲学者ライプニッツのように、考えることも、できよう。

そのように、考えるならば、一つの心を二つにして間を隔てる、間隔こそ、自己の自己性を失わせて心を他性を帯びた他者としている、ということになる。

つまり、他者とは、あくまでも自己にとっての他者なのだ。

まず、自己という基準があって、ついで、基準との距離間があることを以って、他者が他者たらしめられるのだから、自己が他者を他者たらしめているのである。

したがって、もしも、自己が自己であることをやめたならば、他者は他者であることをやめるだろう。

すなわち、自己が死ねば他者として生まれ変わる。

自他の間を隔てる、間隔とは、もちろん、時間間隔と空間間隔の二つである。

哲学者ベルクソンによれば、時間とは、すべてが一挙に与えられることを妨げて一つ一つ小出しにして与えていくものだ。

現時点が現時点であることをやめたならば、それと時間的に隔たっていた時点が現時点になるのと同じように、自己が自己であることをやめたならば、それと空間的に隔たっていた他者が自己になる。

それが、自己が死ねば他者たちのうちのいずれかとして生まれ変わる、ということだ。

そのことを、指し示して、哲学者ショーペンハウアーは、時空という形式こそは、内容である心という一者を、数多性を本質とする物質にする、と言ったのである。

(※以上の文面はマイミクさんのシルレルさんがこの日記のコメント欄の書き込みで補って下さった思考を盛り込んで加筆修正させて頂いたものです)
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年01月13日 15:57
    第一段落について。距離が遠ざかるにつれて他我は物象化されるとありますが、私はそうは思わないので質問です。松ぼっくりさんはこのテーゼをわが立場として書いているのか否か。その2、ライプニッツなら、そう考えると仮定されていますが、例えば物象化という概念が当時あったのか、若干疑問に感じます。どこまでが彼の考えで、どこまでが松ぼっくりさんの解釈なのか、ご教示いただけると幸いです。

    いきなり殴り込み的に見える発言ですが、そういう意図はまったくありませんので、ご寛恕ください。学を論じるときには、そういう文体になるものですよね?
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2020年01月14日 08:11
    > mixiユーザー 
    議論を通じて思考を活性化させて頂ける機会を下さって、有難うございます。

    ライプニッツの唯心論的世界観は現代物理学の近代における先取りと言って過言でないくらい、近現代のこの二つは、一致整合する点が多く、二つを一つに結び付けて考える、唯心論物理学なるものを、中込照明という物理学者は、提唱してるのですけど、しかし、物心両界を縫い合わせる、その議論は、徹頭徹尾天衣無縫であるとは言い切れないので、中込照明のアウトラインに沿った僕の試論に対して「そうは思わない」と仰るシルレルさんのお考えも分かりますし、僕はライプニッツ的にしか考えられないわけではない、ということを、断った上で、舌足らずだった点について、以下に補足説明させて頂きます。

    脳細胞が単細胞生物アメーバみたいに触手を四方八方に伸ばして周囲の脳細胞たちと連絡を取り合う連絡網としての脳神経回路網において、脳細胞たちは距離が近いために心を感じ合うことができるから、脳全体の心は、一つにつながってる、という意味で、物象化し合ってないのに対して、多細胞個体の心が細胞社会の集団心理であるのと同様に、個体としての自己も、種社会をなす他者たちと、共感によって心が一つながりをなしてるわけですけど、自己と他者たちは距離が遠いために、心のつながりを薄々としか感じられない、というふうに、不感症気味になってて、物象化し合ってる、というふうに、心の物象化の度合は距離の関数になってる、ということを、僕は念頭に置いて、この日記を書いたのです。

    空間的距離だけでなく、統合失調症患者の世界において成り立ってない、心理的距離感のことも、距離と言うとすれば、やはり距離を取ることに物象化は対応してると言える、と思います。

    日本語で言えば、ライプニッツの言う「表象」とは、内側から共感的に追体験されれば心である所与を外側から「表」面的に眺めたときは物「象」として現れる、という意味で、そもそも表象という言葉は、原語であるドイツ語でも元々そういうことを言い表す概念として用いられてて、語源学的に詮索すれば、「表象」とは「Vorstellung」で、「Vor」は「目の前に」という意味で、「stellung」は「置くこと」という意味で、つまり、目が目自身を見ることができないように、認識するとは距離を置いて対象として外在化させることで、そのような表象という言葉に含意されてた、認識する主観が認識される対象である客観を構成してて、一つの心が主客二つに自己分裂したことによって二つの対象化し合いとして物象が現象した、とする、カントに、引き継がれた、ライプニッツの考え方で、物象化とか疎外とかという用語を後世になってマルクスが自らの哲学的立場を言い表すキーワードとして使う以前から、哲学の基本的な考え方として、物象化論や疎外論という考え方は、ありました。

    大雑把な言い方をすれば、科学は存在が認識を生み出すという考え方であるのに対して、哲学は認識が存在を生み出して外界を外在させるという考え方ですからね。

    古代中国の哲学として、陰陽入り混じった混沌という一元が陰陽二元に自己分裂したことによって、物で出来たこの世が創られたとする、陰陽思想という創世神話も、あることからも、分かるように、近現代になって科学が西洋を席巻する以前には、物象化論や疎外論は、或いは古代印度のウパニシャッド哲学など、古今東西を問わず、ごくありふれた考え方だったのです。

    ライプニッツが世界の構成要素の最小単位の二大根本特性としたのは意欲と表象ですけど、意欲とは或る表象から他の表象へ変化しようとする傾向のことであるとライプニッツは言いましたけど、モナドが運動変化すれば他のモナドたちとの空間的位置関係が変化して距離間が変化する、という意味で、表象は他の表象へ変化して、動いたモナドにとっての世界観は変わります。

    意欲とは意志のことで、意志とはおのれを動かそうとする意志のことで、たとえば、学校に遅刻しないように足を動かして走ったり、授業中に手を動かして挙手したり、させるのは、意志で、すべての物に心という意志があって、心という意志が物で出来た世界を衝き動かしてる、というわけです。

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