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2020年01月13日06:04

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「萌え」の条件

我々は、自我と他我たちとからなる。

自他が関係し合うに際して、相手の立場に立って考える、ということを、我々は、お互いに、やっている。

対人関係の場面で、無意識のうちに、我々が、やっている、自他の立場を置き換えて考える、ということは、どういうことか、顧みて、もし内省されるならば、心であるような核心は、周辺から眺められたときは、疎外されていて心として感じられなくなっていて、物象という対象にされているのだから、脳細胞が単細胞生物アメーバみたいに触手を四方八方に伸ばして周囲の脳細胞たちと連絡を取り合う連絡網としての脳神経回路網において、脳細胞たちは距離が近いために心を感じ合うことができるから、脳全体の心は、一つにつながっている、という意味で、物象化し合っていないのに対して、多細胞個体の心が細胞社会の集団心理であるのと同様に、個体としての自己も、種社会をなす他者たちと、共感によって心が一つながりをなしていても、自己と他者たちは距離が遠いために、心のつながりを薄々としか感じられない、というふうに、不感症気味になっていて、物象化し合っている、というふうに、心の物象化の度合は距離の関数になっていて、距離間が遠ざかるにつれて、心は心という性格を次第に帯びなくなっていって、どんどん物象化していく、という結論を、導き出して、自分自身にとっては心であるような点粒子は他の点粒子たちとの相互関係においては物象として表象されているから、任意の二点間の相互作用は心の物象化し合いである、というふうに、哲学者ライプニッツのように、考えることも、できよう。

そのように、考えるならば、一つの心を二つにして間を隔てる、間隔こそ、自己の自己性を失わせて心を他性を帯びた他者としている、ということになる。

つまり、他者とは、あくまでも自己にとっての他者なのだ。

まず、自己という基準があって、ついで、基準との距離間があることを以って、他者が他者たらしめられるのだから、自己が他者を他者たらしめているのである。

したがって、もしも、自己が自己であることをやめたならば、他者は他者であることをやめるだろう。

すなわち、自己が死ねば他者として生まれ変わる。

自他の間を隔てる、間隔とは、もちろん、時間間隔と空間間隔の二つである。

哲学者ベルクソンによれば、時間とは、すべてが一挙に与えられることを妨げて一つ一つ小出しにして与えていくものだ。

現時点が現時点であることをやめたならば、それと時間的に隔たっていた時点が現時点になるのと同じように、自己が自己であることをやめたならば、それと空間的に隔たっていた他者が自己になる。

それが、自己が死ねば他者たちのうちのいずれかとして生まれ変わる、ということだ。

そのことを、指し示して、哲学者ショーペンハウアーは、時空という形式こそは、内容である心という一者を、数多性を本質とする物質にする、と言ったのである。

(※以上の文面はマイミクさんのシルレルさんがこの日記のコメント欄の書き込みで補って下さった思考を盛り込んで加筆修正させて頂いたものです)
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