大学入学して哲学徒になり、一番最初に引っ掛かった疑問を、僕は、依然解消できていないようだから、改めて問いの答えを見出すべく、以下に考えてみる。
哲学の本質は独我論にある、と僕は思う。
独我論とは、他人に心は存在しないとする前提から出発する議論だ。
他人に心が存在するようには感じられないというのは、世界に対する基本的な信頼感が形成されていない人の感じ方かもしれない。
外界の他者たちを、共感も感情移入も、し得ない、得体の知れない存在として、感じているのかもしれない。
疑惑と畏れを、そして、もしかしたら、芥川的不安を、抱えているのかもしれない。
芥川のような、母乳で育てられなかった人や母性的な愛を知らないで育った人の感じ方は、独我論なのかもしれない。
独我論を発想の根本に据えている哲学者と言えば、外国では、ウィトゲンシュタインやフッサール、日本では、廣松渉や永井均、等々、沢山挙がる。
独我論者と独我論者が遭遇したら、お前に心は存在しない、俺にしか心は存在しない、と、お互いに言い合って喧嘩になるのかと思いきや、思想的に共鳴し合って、わたしはわたしの独我論を正しいものとして採用すべきだし、あなたはあなたの独我論を正しいものとして採用すべきだし、見解は一致している、と言い合って、仲良くなってしまうのが、オチなのである。
ここにおいて、独我論から出発した思考は、進化バージョンとなる。
独我論とは、もちろん、他人たちは世界という自分が見ている夢の登場人物たちにすぎないのかもしれない、だから他人たちに心は存在しないのかもしれない、という考え方だから、その進化バージョンは、自分は自分が構成している世界に住んでいてそこから一歩も外に出ることはなく、他人は他人が構成している世界に住んでいてそこから一歩も外に出ることはない、という考え方になる。
一人一人が個々別々の孤独地獄で苦しんでいて、分かり合えることはない、という考え方だ。
この考え方の代表的なのは、唯識という古代印度の仏教思想である。
唯識の考えに親近性が高い人たちは、たとえば、ウィトゲンシュタインが言っているように、他人にも空が青く見えているとは限らない、という発想の仕方をする。
同じ青という言葉で呼んでいても青という言葉が指し示している質感が同じだとは限らないではないか、というわけである。
こういう人たちは、往々にして、答えを出したがらなくて、どんな答えを出されても、そうとは限らないではないか、と、答えはいくら考えても分からない、と、言って、いつまでも、考えても答えが出ないということを証明するためだけに考える。
こういう人たちに、こういう答えも考え得る、そういう答えも考え得る、ああいう答えも考え得る、というふうに、考え得る可能な答えを、一つ一つ出して行ったところで、議論は噛み合わない。
如何なる答えに対しても、それが答えだとは限らないではないか、と、一蹴されて、続けて出て来るのは、エンドレスな証明、考えたところで答えは出ないということを証明するためだけのエンドレスな議論である。
答えを出したい人が答えの一つとして出す唯識に対しても、それが答えだとは限らないではないか、と一蹴されて、答えについての議論を打ち切られて、エンドレスな蟻地獄に引きずり込まれるだけである。
これでは議論が噛み合うはずがない。
感覚が違うのだから。
この感覚が違う、分かり合えない同士は、如何にして歩み寄れるだろうか。
お互いに、読んでいる空気が違う、お互いに、自分がキャッチできないものを相手がキャッチしている、ということを、認め合うことから、始めなければならないのではないか。
人は、ともすれば、自分が感じている感覚を感じていない他人を、単に鈍感な奴と唾棄して事足れりとして終わりにしがちで、自分には感じられない何かを感じている、というふうに、認めて、他者の他性へ配慮することは、中々出来ないものである。
多様性への寛容さを欠いていること、それこそは、罪なのではないか。
人は、罪深い、傲慢な存在である。
そう自覚しなければ、対話のテーブルに就ける者も就けないし、他人の心を想像することが出来る者も出来ない。
僕は、赤いことを、言っているだろうか。
赤くて大いに結構。
僕が大学で哲学教授から教わったことは、プラトンとかハイデガーとか、哲学者が政治に関わってろくなことになったことがない、ということだ。
僕は、如何なる政治的意見も持たないぞ、という立場に立つ、哲学教授から、哲学を教わってきた。
しかし、如何なる政治的意見も持たないぞ、というのは、特定の政治的意見の所持者にならないことによってそれ以外の政治的意見を排斥する者にならないぞ、ということであり、赤さへの寛容さを欠いてしまったとしたら、立場を履き違えていると思うのだ。
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