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2019年11月24日06:03

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心的装置の無底と根源的アイデンティティ

部下たちという下位の段階が上司という上位の段階によって統合される会社組織の階層構造では、下層をなす者たちの自由な自律性への抑圧の上に成り立っている層が統合を実現している。

統合失調症患者にとっては、他者の思念は、耳に聞こえる幻聴という形を取ったり、目に見える幻覚という形を取ったり、五感で感じられるような形で現れてくる、ということから、言えるように、統合失調症患者にとっての世界は目が覚めたままで見ている夢で、眼識と耳識と鼻識と舌識と身識という五感を統合する第六感たる意識を司る脳の機能の失調を来たしていることによって、目に見える具体的なイメージという視覚をはじめとする五つの感覚に対する、目に見えない抽象概念で考える脳意識による、抑圧が、十全に実現していない、という意味で、夢とは、意識という無意識に対する抑圧者が失われることによって抑圧されて意識下に潜んでいた無意識が自由な自律性を獲得して意識上に上ってくることが可能になることだからこそ、統合失調症患者は思念が見えたり聞こえたりというふうに第六感以下の五感として経験し得るのだ。

社会に出て、自分を否定する他の人たちと遭遇して、顔で笑って心で泣いて、内心泣きながら大激怒していても表向きは穏やかに和やかに振る舞って見せる修行が人生だと覚悟を決めて修行を実践している修行者たる我々にとって、抑圧されて、無意識という忘却の彼方へ行った憎しみや怨念などの心的内容は、踏みにじられた心の声は、どこへ行ったのだろうか。

誰もいないのに、声が聞こえるのは、別世界から聞こえてきたのではないか。

つまり、統合失調症患者は、心が別世界と根っこで一つにつながっていて、交信できるのではないか。

キリスト教の異端説とされるグノーシス思想の聖典によれば、最高神という一者全体が存在して、この世界は低位の神によって創造されたのだけど、低位の神々によって創られた諸世界のうち、この世界でない、別世界から、声が聞こえてきたのではないか。

統合失調症専門の某精神科医は、「傷付いた者にしか与えられない特別な感受性がある。統合失調症患者たちはそれを我々凡人に教えてくれているのだ。」と言っているのだけど、彼らに接して、彼らの底の知れない感受性を、感じるときに、そう言いたくなる気持ちは、分かる気がする。

神秘主義哲学者ベーメは、神の根底は無底である、と言ったのだけど、この世界を創った神の根底にさらに高位の神がいて、我々凡人がいくら思考を深く掘り下げたところで、すべての神々の根底をなす、底無し沼のように深い最高位の神を、感じることはできないのだろう。

鏡なしに自分自身を見ることができないことから分かるように、見ることは距離を置いて対象化して外側から表面的に眺めることである、という意味で、対象は表象で、目に見える物として表象される対象は内側から共感的に追体験するならば目に見えない心という意志である、と説いた、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』によれば、「意志としての世界」の表象する主観と表象される客観への分裂こそ「表象としての世界」で、一つの心が相互作用することによって物象化し合う二つに分裂して、相互主観性において「表象としての世界」が現れたのだ。

このような主観と客観の間の空間的距離が成立していないことによって「表象としての世界」に踏みとどまることができない病が統合失調症で、自己が漏洩して心の中が他者につつぬけになったり、他者が自己に侵入してきて意志に反して何かをさせられたり、自他の間が成立していない、統合失調症患者にとって、「意志としての世界」という根底においては全ては一つにつながっている。

このような「意志としての世界」という一者を、粉々に粉砕して時空の中に散布して分布させることによって、数多性の支配下にある「表象としての世界」が成立する、という意味で、時間と空間という間こそ、表象という現象を、支配している、形式である。

このような現象が前面に現われることによって背景に退いて覆い隠されている、時空以前の分割不可能な一者である、「意志としての世界」という背後世界は、神である。

統合失調症患者が目に見えたり耳に聞こえたりという形で感じている他者の他性は、この世界のどこかからやってきたものなのか、この世界を創った神とは別の神が創った別世界からやってきたものなのか、その答えは、統合失調症患者自身に、分かるか分からないか、と言えば、分かるということは分割するということで、他者の他性は分割以前の世界へのアクセスによってしか感じられないものなので、自分自身でも分からないのかもしれない。
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