mixiユーザー(id:766386)

2019年11月12日09:24

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悟り方講座

世界の99.99…%が無生物界で生物界は0.00…%なのに、なぜ自分は無生物でなく選りに選って生物なのか、と言えば、無生物には自分を自覚しない無意識的段階の心しかなく、ちょうど怪我をした子供が怪我をしたことでは泣かなかったのに大人から可哀想ねと言われて初めて泣き出すということがあることから分かるように、無生物の心は何かを感じていても何かを感じている心を振り返る反省的意識がないために何も感じていないも同然だからだろう。

生物は、水と混じり合う油だ。

水と油は、不倶戴天の敵だから、無生物界においては、水は水同士で、油は油同士で、棲み分けていて、そこに葛藤はなく、したがって、無生物の心に、理性と本能の葛藤としての感情は、生起していない。

三十八億年前の地球上の海の水の中の一滴の油に、生命の起源は、あるのだけど、油が水と棲み分けたい、という意志に逆らう、油が水と棲み分けるわけにいかない、という現実が、葛藤を生じて、水という外的現実が突き付けてくる要求と油の本能的欲求の葛藤を内面化した結果として、理性と本能由来の感情との相克を、経験する、生物が、誕生した。

ちょうど、我々人間が身体全体の健康のことは気にも留めないで靴擦れのする小さな箇所が気になるという具合に、心は、意志通りにいっていないほんの小さな事を気にして意志通りに運んでいる事柄全体には気付きもしないので、無生物界全体の中に生物界が誕生して、初めて、心が感じているレベルの上にそれに気付いているレベルが積み上げられたのだ。

心が感じていることに気付いているという自覚があるところには、自覚する自己と自覚される自己という二つが混じり合って不可分一体をなすことが、あるわけだけど、心が、自覚する自己である水という上位レベルと自覚される自己である油という下位レベルの二つが混然一体をなすことによる、自己意識の段階に、高まったときに、生物界は出来上がった。

生物の意識は、無生物の無意識を、抑圧する。

生物界は現実が意志通りになっていない地獄で、無生物界は現実が意志通りになっている天国だ、とすれば、人が生きているままで、この世を天国と感じる感性への理性による抑圧から、解放されることこそ、キリスト教信者の神秘体験なのかもしれないし、仏教で説かれている悟りなのかもしれない。

果たして、そんな芸当が、本当に可能なのかは、保証の限りではないが。
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コメント

  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月19日 11:28
    これは一風変わった悟り論ですね。私には、どこが悟りに関わっているのか分かりませんでしたが、「キリスト教」とか「仏教」という言葉が出てきますから、やはり宗教に関連付けられた内容だとは思いますので、また宗教論を読ませてもらいながら、解読できた時点で、改めてコメントさせていただきます。ところで松ぼっくりさんは、キリスト教の仏教の中では、どっちに強い関心をお持ちですか。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月20日 01:24
    > mixiユーザー 
    たとえば、神は世界創造し終えたのちにも世界進行に介入して奇跡を起こすことがあって、神の思い付きであるイデアという神の考えを形にしたものこそ、この世の個物だから、この人間でもなくその人間でもなくあの人間でもなく、どの具体的な人間でもなく、人間一般という抽象概念が、個人に先立ってイデアとして神の心の中に存在して、イデアという設計図をもとにして個人が形づくられた、とする、プラトン主義は、キリスト教を下敷きにしてるので、大学で哲学を専攻してた僕は、西洋哲学と密接な関連がある、キリスト教については、今まで色々学ぶ機会がありました。
    また、親鸞の他力本願の思想について、関心を持って勉強してた時期がありまして、他力仏教には、実は詳しいんですけど、自力仏教についても、少し学んできてます。
    それと、唯識思想についても、興味を持って取り組んできました。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月21日 23:17
    分かりました。イデア論と宗教(キリスト教)がそのように関連付けられていたのですね。なので小生には宗教との関連性が読み取れなかった理由も分かりました。小生もキリスト教グノーシス主義の聖典は読みましたが、やはりキリスト教を分裂させるような内容も含んでいたかと。ということで、この話はしばらく置くとしても、親鸞の他力本願(浄土真宗)というのも、仏教というより、むしろキリスト教に近いものですね。キリスト教が人を天国へと救い上げる宗教なら、浄土門は人を極楽浄土へ救い上げる宗派であり、共に救い主が居ますね。キリスト教にはイエス・キリスト(神の子という触れ込みでの神の代理として)が、浄土宗には阿弥陀如来が。ところで仏教と云えばやはり釈迦が説いた仏法集の阿含経が基本だと思いますが、日本では大乗仏教の信者が多いですね。唯識宗も大乗仏教の一つで「法相宗」とも呼ばれていますが、宗名を聞くだけでも哲学的な宗派と予感させそうですから、哲学趣向の人には好まれるのかも知れませんね。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月24日 07:02
    > mixiユーザー 
    アートマン(=我)は固定不変な実体としては無い、ということは、釈迦が言わずとも、バラモン教のウパニシャッド哲学で説かれてた梵我一如という言葉に集約される概念のうちに、既に言われてたことで、アートマンは生まれてから死ぬまでの間だけは個別化の原理によって一時的に存在するだけでアートマンは生死を超えたブラフマン(=梵)のうちに解消されて無に帰する非実体ですよ、アートマンは固定不変な実体では無いですよ、って、言われてたのに、釈迦は、そういうバラモン教のウパニシャッド哲学を、故意に歪曲して見せた上でその歪曲された主張を否定する、という誤魔化しの論法を駆使して、無我ということを、あたかも自分が初めて言い出した独創的な考えのように言ったけど、あたかも無我ということがバラモン教のウパニシャッド哲学では説かれてないかのように釈迦は言いくるめてて、しかも、釈迦の仏教は、無我輪廻の説明原理として、非個別的な業以外に個別的な阿頼耶識という我も存在する、ということを、想定しなければならなかったわけで、そのような、唯識によって阿頼耶識という生死を超えて存在し続ける我が新たに措定されなければならなかった、という歴史的必然に、帰結する、自己矛盾を、あらかじめ孕んでたのは、釈迦のほうだったのであり、そこに欺瞞があるように、僕には感じられる、ということが、前々から思ってたことのうちの一つとして、あります。
    ちなみに、グノーシス主義における、最高位の神から低位の神々まで存在して、低位の神々のうちのいずれかがこの世界を創造した、という思想については、神の心の中にイデアが存在してイデアに位階の諸段階があるとする、プラトンの哲学の継承者である、ショーペンハウアーの哲学にも、親近性が高いように、僕は感じられます。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月24日 13:36
    > mixiユーザー 
    そういうふうにお考えでしたか。一読して感じたことは、思考が平面的になっている点ですが、これは小生の見解が立体的な故の感受でしょうね。釈迦は最初からアートマンを否定してはいませんが、衆生が我心(阿頼耶識)を直接のアートマンだと思い違いをするといけないので無我を説いたのですね。つまり釈迦は諸法無我(「此の世に我というものは無い」という説法)を説くことによって、衆生をアートマンに目覚めさせようとしたわけです。なので釈迦はアートマンを直接には説いていませんが、「ほんとうの自分を捜しなさい」とは云っていますね。「捜しなさい」とは「悟りなさい」という意味です。何故なら「ほんとうの自分」は不可捉にして不可説だからです。次にプラトンのイデア論ですが、これはもともとソクラテスの産婆術に由来する観念であって、プラトンはそれをイデア論に発展させようとしたものと小生は捉えていますが、小生が見るところ、このイデア論は少し不自然なところが残っているので、構想途上の理念のように思っています。こんなところが現時点での小生の見解です。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月24日 19:09
    > mixiユーザー 
    心理構造が違うために、お互いに相手の視点が自分の盲点から出てきて、盲点を突き合ってるということになるのだ、と思いますけど、不自然なイデア論を自然なものにすることは不可能なので、構想途上の理念が構想途上の理念のままで、完成形なのだ、と僕は考えてます。
    数理物理学者ペンローズは、わたしのプラトン主義は「偏見」だ、と断った上で、目に見えない抽象的な数のイデアが霊として存在してそれが受肉したものこそ目に見える具体的な物で出来た世界だ、と言います。
    すべてのイデアのイデアは善のイデアだとプラトン自身は言ったのに対して、ペンローズならばすべてのイデアのイデアは数のイデアだと言うわけです。
    たとえば、素粒子はスピンしてて、素粒子のスピンは二回転して初めて元に戻るようなスピンで、すなわち、一回転目で‐1を掛けることになって正負の符号が反転してもう一回転目でもう一回‐1を掛けてもう一回正負の符号が反転して元に戻ることになるから、半回転が虚数√‐1を掛けることを意味する、という具合でして、虚数という目に見えない抽象的な概念の実在を想定することによって、可能になる、二回転して初めて元に戻るような回転運動は、可視化できない、という意味で、素粒子のスピンについては、数学的にのみ辻褄の合った計算処理ができるだけで、そこに何らの目に見える物理学的な描像を描くこともできないわけです。
    こういう現代物理学の知見から、目に見える具体的な物が存在する以前に目に見えない数で出来た理想世界が存在して、その落とす影が物で出来た現実世界である、とする、ペンローズの「偏見」は、出て来たわけですけど、赤い炎も熱い炎も存在しない、というふうに、目に見え手に触れられる物が実在するとする素朴実在論の否定は、電磁気学と熱力学という近代物理学によって、既に導かれてました。
    そして、ショーペンハウアーならば、「素粒子」→「原子」→「分子」→「生体高分子」→「細胞内小器官」→「細胞」→「組織」→「器官」→「多細胞個体」→「種社会」→「地球生態系全体」→「太陽系」→「銀河系」→「銀河団」→「超銀河団」→「宇宙全体」というふうに、部分部分を統一して全体にする、物質の階層構造をなす、諸階層は、イデアの客観化の諸段階である、と言うわけです。
    このように、プラトンとペンローズとショーペンハウアーで、それぞれ違ってて相容れない、イデア論を、提唱してて、すべてのイデア論のイデア論という統一理論の実現は、不可能である、という意味で、構想は構想のままで実現可能性の段階のままで、留まり続ける、ということを、言いたくて、以上、イデア論の可能性とその限界について、つらつら述べました。
    もし無矛盾な理論体系が存在するとしたら、それは同じ一つの主張が真であるような理論体系と偽であるような理論体系という二つに自己分裂せざるを得ない、という意味で、無矛盾性と、真偽決定可能であるという完全性は、両立し得ない、とする、ゲーデルの不完全性定理の、実例として、統一理論としてのイデア論の不可能性は、ある、と僕は考えてます。
    神の考えに、理論全体としての内部的な整合性は、付けられてなくて、神は、場当たり的な思い付きに走って、その場その場の有り合わせの材料を使って即席でこれをこうしようという思いを形にした、設計図に基づかない、いわばブリコラージュとして、世界の有様はあるのだ、と僕は思うのです。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月25日 22:50
    > mixiユーザー 
    様々な観点からの考察、探究心旺盛ですね。思えば独特な「悟り方講座」から始まって、その説明に「神の思い付きであるイデアという神の考えを形にしたものこそ、この世の個物だから」と語った辺りから、話がイデア論に入ってしまいましたね。小生は仏道の思想に傾きがちなので、プラトンのイデア論に対しては否定的なところがあるし、旧約聖書の「神が世界を創った」という話にも否定的ですが、それを考えてもいけないとも思っていません。しかし、どう考えてみても、そういうイデア論は不自然なものになり、それ故信憑性に欠けるものになるとは思っています。例えば今回の思考例のように、物理の視点から考えたとしても、神が天地を創造したという前提に立つ以上、物理は創られた物からの視点ということになり、ニーチェが指摘する「神が人間を創造したのではなく、人間が神を創った」という逆視点を地で行くようなものだと思うからです。こう云ってしまうと、プラトンのイデア論に対するアリストテレスの言い分に近くなって、思考の面白味を欠きますが、小生の見解はアリストテレスとも少し異なっていて、仏道の真如覚の立場からイデア論を継承する道を考えたことがあります。一例を述べれば、善のイデアには光明の覚を充て、従って悪のイデアには無明の闇を充てるという具合です。ソクラテスが話題の取り上げた「勇気」とか「徳」などの精神的な問題も、覚道から導き出せると思っています。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月26日 05:18
    > mixiユーザー 
    人間が思考の道具として使用してる、言葉が、イデア的なものが、不完全性を内包してるのはもちろんですし、言葉で考える理性が不完全だからと言って感性の世界に逃避しても、直感的真実だと思ってることのうちに妄想が一杯混在してて、それを真実と妄想に分ける分析を、言葉という分類枠を用いて、やらなければ、やはり不完全だし、どのみち不完全だと思いますので、ペンローズの言う通り、人間の考えは、独断であり偏見である、と言えると思います。
    そして、天の国を指さすポーズを取ったまま微動だにしないプラトンと、地の国を指さすポーズを取ったまま微動だにしないアリストテレスは、必ずしも、相容れなくないのではないか、というのが、僕の考えです。
    つまり、天と地は、言い換えれば、形而上と形而下は、相互に根拠付け合って、ループをなしてるのだとすれば、天のほうが地よりも根源的な存在であるとするプラトンも、地のほうが天よりも根源的な存在であるとするアリストテレスも、両方正しいとする両立が成立するわけで、このような、ループはループのままで、同じことの繰り返しでもその意味や深さは違うので、アングル変えて見れば、スパイラルを描いて上昇してる、そのような、不可逆な、何かを、過去から未来へ向かう、後戻りしないOne Way Roadである、時間の矢は、暗示してる、というところに、着目した、ヘーゲルの明るい進歩史観を、プラトンとアリストテレスをアウフヘーベンしたものである、と捉えることは、できる、と思います。
    神の国から派遣されて来た人間たちが使命を果たして死んで神の国に還る、あるいは、一者から流出した者たちが一者に回収される、そのような繰り返しは、繰り返しのようでいてじつは繰り返しにとどまるものではない、というところに、着目する、ヘーゲルの弁証法は、もしかしたら、アウフヘーベンの行き着く先にある極致にして人生の目的である絶対知や絶対精神のことを考えて、人類史上最もハイになれる思想である、と同時に、ハイになった反動で鬱になることも伴う思想なのかもしれませんけれど。
    ショーペンハウエリアンである僕としては、ヘーゲルの時間観とショーペンハウアーの時間観を、アウフヘーベンしたら、どういう結末が見えてくるのか、結末に救いのある話は出て来るのか、興味があります。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月26日 18:09
    > mixiユーザー 
    小生の前コメントでは、「プラトンが言うイデアは図形によっても捉え得ないものですが、それ故真如覚と無明に基づいて善悪や真善美等のイデアを直感する道が最良ではないか」という意見でしたが、真如覚という言葉を説明しなかったので、コメントの件が無視されたのだと思います。真如覚というのは人間の思考能力(言語認識を含む)を超えた光明覚なので、神が天地を創造した後「光あれ」と云った状況と相似的だし、プラトンの「洞窟の比喩」に於いて洞窟から脱出したときに体験する眩しい光の世界にも匹敵する真理の光でもあるところのものが真如覚ですから、これ以上は望めないイデアの宝庫としては、真如覚が最適ではないですかと述べたのでした。真如覚を理性で弄くることさえ不可能なので、真如覚より更に神智に近付ける覚は無いでしょう。
  • mixiユーザー

    mixiユーザー2019年11月26日 19:54
    > mixiユーザー 
    そうなんですか。
    僕は、ニーチェ及びハイデガーのプラトン哲学に対する哲学史上への位置付けから、プラトンの哲学を解釈してた限りにおいて、プラトンのイデア論でのイデアというのは、超感性的価値で、理性によって把握されるものだと、理解してたわけですけど、プラトンを直に読んだわけではないので、イマイチ仰ることが汲み取れてなくて、奈毘天さんが伝えようとして下さってることを受け取れてなかったような気もします。
    そう言われてみれば、ショーペンハウアーの哲学のうちに総体の契機として組み込まれてるプラトンのイデア論は、ニーチェ及びハイデガーの哲学史観における、哲学の祖としてのプラトンのイデア論と、真逆のものであるように、思えますし、今手許に藤沢令夫という日本人プラトン研究者の書いた本があるのですが、藤沢令夫の言い分によれば、ニーチェ及びハイデガーによる、プラトンへの誤解が、広まってしまってて、惑わされてしまってる人が多すぎて、歪曲されたプラトンがあまりにも通俗化してしまってるので、プラトンの原典を自分で読むことをお勧めする、ということのようで、藤沢令夫のプラトン理解は、イデアは神の心の中にあるものだから直感乃至直観でしかアクセスできないもので概念から出発しても到達し得ないものだとする、ショーペンハウアーのプラトン理解のほうに、沿った線のものであるようです。
    プラトンに関しては、今までかなり色んな方面の人々から、又聞きで、聞いてきましたけど、プラトンは、確か、思想形成の途上で、世界漫遊旅行に出て、どこかでユダヤ教文化に触れてユダヤ教を摂取して、宗教的なバックボーンを踏まえた上で、神の心の中のものとして、イデアを考えたからこそ、すべてのイデアは神の善性を帯びてる、という意味で、すべてのイデアのイデアは善のイデアである、というふうに、考えたものの、そういうバックボーンを隠して、神抜きで、イデア論を語った、という経緯があって、何か、時代なり、従うべきパラダイムに従わなければ殺されるような社会状況なりがあって、怖くてハッキリとは言えなかったのかもしれない、と思います。
    だから、プラトンの原典には誤読の余地があるとしても、神の存在は補って考えなきゃプラトンの真意を正しく理解したことにはならないのでしょうね。
    何だか、プラトンにまつわる色々なことに関して、革新的なことを言ってしまったような気もしますが、そうだとしても、僕はプラトンのような社会的影響力を行使し得る重要人物ではないので、ここで噂話程度の裏話をしても、大丈夫だと思います。

mixiユーザー

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