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2019年01月12日13:19

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孤独の意味を知る

自己が他者に規定されることを拒否して、お仕着せられた見られる自己をかなぐり捨てて、誇大自己を噴出させる所に、統合失調症の本質があるので、統合失調症患者は自分を統合失調症患者と客観視しなくて、裸の王様であり続ける。

精神医学者レインは、統合失調症のことを、引き裂かれた自己と、呼んだのだけど、内的自己から、誇大自己を、外的自己として、噴出させて、外的自己と内的自己に引き裂かれているままに、統合失調症患者は、生きていこうとする。

統合失調症患者は、引き裂かれている自己を自覚してしまうことは、自尊心が傷付くことだから、自己と向き合うことが出来なくて、病識から逃げ回っているのだ。

このように、自己認識することは、自尊心が傷付いて恥ずかしいのにもかかわらず、なぜ僕は典型的な統合失調症患者と違って、一つの自己を二つに引き裂く方向しかないのでなく、引き裂かれた自己を統一しようと強く志向しているのだろうか。

僕の兄は「確かに僕は負けず嫌いで見栄っ張りだけど自分の非を認めることはできる」と言っていた。

見栄や体裁という対外的なものを気にして強がることと内省して反省して弱さを認めることが両立していて、偽りの自己にしがみつくのをやめて真の自己に立ち返ることもできる、兄は、育ちがいいのだ、と思う。

伊達に母からのマンツーマンの指導を施され続けてきたわけではない。

母は兄だけを育てて、僕は放置されてきて、育ちがいい兄にはあって、僕にはないものを、補うために、必要な、モラトリアム期間を、結果的に、延長してもらえている、ということから、推して知るべしで、僕も、育児放棄されてきたようでいて、実は或る意味、純粋培養されて育った、お坊ちゃまなのだろう。

だから、誇大自己を剥き出しにしている裸の王様でありながらも、裸の王様であることを恥じて否定して、本当は自信がないという根っこにある問題に、向き合おうとする、という、典型的な統合失調症患者においては、両立しない、反対方向への努力が両方向とも成立するのだろう。

見られる自己を気にしていなさすぎるようでいて気にしすぎている、という意味で、自己を見詰めなさすぎることを本質とする統合失調症と、自己を見詰めすぎることを本質とする鬱病が、併発している。

非を認めて自分を責めるほうの鬱病も、併発している、ということは、感じていることについて考えることができないことによって直感を根拠とすることができなくて思考が妄想になる統合失調症と、感じていることについて考えてしまうことによって感知していることを認知のまないたの上に乗せてしまい暗くなってしまう鬱病の、矛盾なき共存は、赤子が赤子のままで、大人になった、ということを、意味するのだろう。

赤子は、あらゆる正反対の極端が存在して中和して打ち消し合って無に帰している、という意味で、全性格にして無性格である。

正反対の極端を兼ね備えている、という意味で、大規模な自己を実現するまでに、時間が掛かる、大器晩成という言葉で言い表すこともできる、人間なのだろう。

裕福な家庭の生まれである、という意味では、僕は兄のような人間になることを目指すべきなのだと思う。

理系の兄は、中学校で、体育会系のクラスメイトたちにいじめられて、自分は嫌われる人間なんだという物凄い絶望を味わって、好かれる人間になるために努力しなければならない、と思って、大学では、自分をいじめるタイプの体育会系の人々のコミュニティに、敢えて自ら飛び込んで行った。

そのような、内向的にして外向的な、二極がどちらも潜在していなくて顕在化している、人間に、なることを、目指して、努力して、大人になるまでに、僕の良き理解者になった。

そのような、自己から遠く隔てられていながら自己へ接近しつつあるというダイナミズムを体現している、人間との、見解の一致を、考えに考えて、結局は、見ることになるのだろう。

考えていつか分かることこそ、僕が、外行きの自分を作って内心を見せない、孤独の意味を知る、飄々とした人になって、コミュ障を克服して、自己に近すぎてつらいために自己から遠ざかろうとしている人の気持ちにも、自己から遠いために自己に憧れて近付こうとしている人の気持ちにも、理解を示してあげられる、人間に、なることで、そこに、何らかの存在意義を見出して、遅れ馳せながら社会と共感でリンクして、低い自己肯定感を高めることができて、七つに光って、健全な人間として完成することに、つながるのだろう。

周りの人は周りに流されて生きているのだろうけど、僕は認識によって社会化される必要があるのだろうと思う。
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