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2017年11月01日20:35

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古典の磁場の中で:その12 2人のイタリア人

 今回はアバドとシャイーの演奏について述べてゆきたいと思います。この2人のイタリア人指揮者は最初にメンデルスゾーンの5曲の中から2曲を組み合わせたアルバムを世に問うた後、再びメンデルスゾーンの交響曲に取り組んだ点が共通しています。
 けれどアバドが演奏様式の変革期に再録音したのに対し、シャイーはそれを通過した時期に再録音することができました。その違いは彼ら自身の資質とも相まって、それらの意味合いを大きく異なるものにしたのです。

アバド/ロンドンSO(1967年)
12:42/04:15/10:12/09:24
計36:33 序奏3:29(27.4%)
(34.8%・11.6%・27.9%・25.7%)

アバド/ロンドンSO(1984年)
16:54/04:02/11:27/09:55
計42:18(反復あり)
(40.0%・9.5%・27.1%・23.4%)
13:46/04:02/11:27/09:55
計39:10(反復除外)序奏3:46(27.4%)
(35.2%・10.3%・29.2%・25.3%)

 自らの音楽性が命じるままといわんばかりだった旧録音に比べテンポが遅くなり緩急の差もより大きく調整されているのが数値的には見て取れますが、耳にして感じる落差は数値から受ける印象をはるかに上回ります。どこまでも自然体だった旧盤に対し、新盤には非常に意識的に、神経質なほど細部の変化の意味合いを掘り起こそうとしている姿が耳に付くのです。遅いテンポも彼の場合、ロマン的な粘りを増すというよりもこの細部の探求がそのテンポを必要としたもののように感じられます。しかもアバドがこんな演奏を聴かせたことは決して多くありませんでした。
 このメンデルスゾーンに最も近いのは、70年代にシカゴ響やウィーンフィルなど複数のオケと収録した一連のマーラーです。それらは普段のバランス重視のスタイルに比べやや末端肥大的というか、明らかに細部の表現を優位に置いた演奏でした。それに対し、80年代に収録されたシカゴ響とのチャイコフスキー全集やウィーンフィルとの最初のベートーヴェン全集にはそんな細部の優位は感じられません。あるいはここで、アバドはメンデルスゾーンをマーラーとの繋がりの中で捉え直そうとしていたのかもしれないとも感じます。
 結果的に「スコットランド」の新録音は音楽の流れが停滞気味でワインガルトナーのような自在さからは遠い演奏になっていますが、それがカラヤンのような仰々しさに繋がらないのはやはりアバドがそれだけメンデルスゾーンに近い美意識の持ち主だったからではないかと感じるのです。いささか自意識過剰のきらいがあるとはいえ掘り起こされた表情は多くの演奏が見落としがちな脈絡を絵解きするもののごとき趣さえあり、メンデルスゾーンの交響曲に対する示唆に富む演奏のひとつたりえているとなお感じさせる力を持っているのですから。
 このような細部の優位は80年代末に収録されたブラームスにおいてより抑制された形で用いられましたが、そのことがブラームス特有の推進力の減衰を見事に描き出し、アバドの交響曲分野の録音の中で最も優れたものの一つとなりました。あるいはこのメンデルスゾーンも、もう少し抑制された形で演奏されていればより成功したのではと思うと同時に、あるいは全体からの細部の独立のプロセスをメンデルスゾーンからブラームス、そしてマーラーというラインにみることもできるのかもと考えたりもするのです。


シャイー/ロンドンSO(1979年)
14:31/04:25/11:55/10:07
計40:58 序奏4:03(27.9%)
(35.4%・10.8%・29.1%・24.7%)

シャイー/ゲヴァントハウスO(2009年)
14:35/04:11/08:34/09:02
計36:22(反復あり)
(40.1%・11.5%・23.6%・24.8%)
11:53/04:11/08:34/09:02
計33:40(反復除外)序奏2:54(24.4%)
(35.3%・12.4%・25.5%・26.8%)

 シャイーの「スコットランド」旧盤はロンドンPOとの2番と2枚組LPで発売されたもので、オペラ以外の曲目では最初期の録音にあたるものです。そしてシャイーの場合に特徴的なのは、より古典的な中期までの3曲を録音しない一方で、後期の2曲をあえて再録音していること、しかも新録音が旧録音とは正反対といえるほど解釈を確信犯的に変えていることです。
 この2曲のメンデルスゾーンはフィリップスレーベルへの収録ですが、直後にシャイーはデッカと契約しウィーンPOと組んでチャイコフスキーの5番を発売しました。その後オーケストラを変えながらもブルックナー、マーラー、ブラームスなどロマン派後期の交響曲の録音に力を入れる一方で、初期ロマン派以前の曲目は全く録音しなかったのです。交響曲以外の曲目でも新ウィーン楽派やツェムリンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ヴァレーズなど近現代のレパートリーが優勢でした。ACOとのブラームス全集では余白にシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの作品が配され、それらの作曲家とブラームスの関係性に焦点を当てるコンセプトが採られていましたが、そういう姿勢が後期のメンデルスゾーンへの関心として表れていたということは確かにありそうなことと思えます。
 演奏はバーンスタインに似たペース配分ながらもう一回り遅くしたようなもので、カラヤンほど妙な緊張感を伴わず素直に演奏しているところも共通しています。クレンペラーに迫る遅さにもかかわらずあれほど異形な感じがしないのは、当時の流儀からのはみ出しがないからでもあるのでしょう。とはいえテンポの遅さゆえに曲想の変化への追随はやはり弱く、トリスタンでも聴いているかのような息の長い旋律線に絡め取られる心地になる演奏です。70年代から80年代にかけてのクラシック界の表通りにはこういう演奏が実に多く、それはシャイーのような若手にも無縁たりえない時代の潮流というべきものだったことを今にして思うと同時に、この時期に古楽の運動が顕在化したのはやはり一種の揺り戻しというか、行き過ぎへの反動としての意味合いも強かったのだと痛感するばかりです。

 シャイー自身による30年後の再録音はあらゆる点で対照的な存在です。ゲヴァントハウスに着任してからのシャイーのレパートリーの中で再録音されたのはまたもメンデルスゾーンの2曲とブラームスの4曲なのですが、それ以外の曲目は母国イタリアのヴェルディやプッチーニ等を除くと近現代曲が影を潜め、以前は取り上げられなかったバッハとベートーヴェンの大きなプロジェクトが推進されました。2曲のメンデルスゾーンは2大プロジェクトの開始以前に、4曲のブラームスはその完了後に収録されているのです。かつて後期ロマン派が終焉を迎えた地平から音楽に向き合うことを始めたこの指揮者は、赴任コンサートでメンデルスゾーンの2番を取り上げることでこれまでと対照的な地平から音楽に向き合うことを宣言していたのかもしれません。テンポが大幅に速められたことで表情の流転が冴えるようになり、力感や重厚さ頼りではない俊敏な表現を獲得している点が大きな違いであって、そのことは6年後に収録された「スコットランド」にも共通しているのです。
 全ての楽章で演奏時間が短くなっているだけでなく、緩急の落差が縮められていることで巨視的な緩急より細部の表情の流転が表に出ているのが大きな違いで、その点ではワインガルトナーに通じるところがあります。けれどシャイーがワインガルトナーやアバドと異なるのは自らの資質まかせというよりは常に意識的というか自覚的というか、求めるイメージが脳裏にはっきり浮かんでいて、それを実現せんとの明確な意志を感じさせずにいないところです。アバドの場合だと意識的であることに本人がなにやらしっくりしないというかやりにくそうというのか、手探りめいた模索の気配が絶えずつきまとうのを感じるのですが、シャイーの場合は固まった結論を自信たっぷりに表明する趣があります。
 このことは奇しくも同じ80年代末に彼らが収録したブラームス全集に端的に表れています。アバドの場合は4曲のいずれもが上に述べたような細部の表情を入念に描く過程で自然とテンポが落ちてゆく感じで、作意的な演出めいた意図を聴き手に感じさせません。それに対しシャイーの演奏は明らかに巨視的な要請から割り出された細部という趣で、狙いが明確な反面で作意も感じさせずにおかぬ面があります。
 けれどアバドの演奏では4つの交響曲のいずれもが同じ流儀で演奏されてしまうのに対し、シャイーでは2番だけが飛び抜けて速いテンポが課せられています。ブラームスの交響曲全集録音においてこのような例は極めて稀なもので、少なくとも僕は類例を知りません。でも、だからこそ気づけるのです。4つの交響曲のうち2番以外の3曲では必ず第1楽章にテンポが減速して音楽が止まりそうになる場面が書かれているのに対し、2番だけはそういう場面を持っていないということに。
 アバドという指揮者を形容するなら音楽家との呼び方しか思い当たりませんが、シャイーの場合は解釈家と呼ぶことも可能だと僕は思います。アバドにはより世代の古い巨匠たちのように自らの演奏の型を追い求めていたようなところがあり、それがベルリン時代のベートーヴェンやマーラーの再録音における以前よりも古典的な演奏スタイルへの到達と見て取れるのに対し、シャイーは自分の気質や体質に鑑みての演奏の自然さにそこまでこだわっておらず、対象をあくまで客体として見据えているように感じるからです。アバドが最後まで感性の次元で演奏していたとするなら、シャイーはより知的というか分析的な音楽への向き合い方をしていたのでは。彼らを音楽家と、解釈家と呼ぶゆえんですし、アバドのメンデルスゾーン全集がシャイーのブラームスのような明確な主張にまでは最終的に至らなかったのもそんな両者の違いに由来することのようにも思うのです。


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