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2017年07月19日19:29

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古典の磁場の中で:その3 ワインガルトナーの示唆

 LP復刻当時すでに録音から半世紀。今では90年前の音源になりつつあるワインガルトナーの「スコットランド」 にもかかわらずこの演奏を抜きにしてこの曲を、ひいてはメンデルスゾーンという作曲家を語ることは僕にはできそうにありません。彼の「スコットランド」は他の演奏とは考え方が根本的に異なるものでした。それほど僕にとっては啓示的なものでした。
 現在聞ける多くの演奏で「スコットランド」の第1楽章は序奏を持つ古典交響曲とみなされていて、序奏と主部の区分を明瞭につけようとする一方で主部のテンポを極力一定に保つことに力が注がれています。確かに外見上この第1楽章はそのような形式で書かれており、古典交響曲の約束事を当てはめればそういう演奏になるのは当然すぎるほど当然です。でもそうするとこの音楽がなにを語っているのかはとたんに見えなくなるのです。本来なら形式的な見通しがついて当然の措置がなされているにもかかわらず、とくに主部の数多くの楽想が口をつぐんでしまうのです。
 ワインガルトナーは序奏を速め、主部を遅めに演奏して落差を小さくする一方で、主部の楽想が変わるごとに固別のテンポを与えています。それはどんな小さな変化も見逃さないほど徹底したものでありながら、それが煩わしさにつながることは決してありません。彼の時代の大指揮者たちに共通する特徴との2つの違いがそれを阻んでいるからです。決して旋律を粘らせないことと、テンポの振れ幅が抑制されていることです。

 当時の大指揮者たちのほとんどは、自分が感じたものを100%、むしろ150%や200%まで表現せずにはいられない人々でした。たとえばメンゲルベルク、ストコフスキー、フルトヴェングラーなど、それぞれ本質も芸風も異なる人々ですが、その点だけは共通していたのです。だからこそ彼らの演奏はSPの音質を通じてさえ雄弁さを発揮し、それが彼らの実演に接することができぬ人々へも名声を広げることになったのでした。彼ら3人がベートーヴェンと同等かそれ以上にチャイコフスキーの録音で名声を博していたのは偶然ではありません(今では信じ難いことですが、戦前に発売されたフルトヴェングラーのベートーヴェンの交響曲は「運命」ただ1曲だけでした。もちろんそれは当時最も優れた「運命」とされたレコードでしたが、同時期に録音された「悲愴」もまたメンゲルベルクと決定盤の座を争う1枚だったのです)
 ワインガルトナーの流儀はそれら当時の大指揮者たちと正反対とさえいえる、感じたものを100%出し切るというより抑制を尊ぶものでした。どんなに小さな曲想の変化にも敏感に反応しているにもかかわらず、当時の同僚たちのようにそれを強調するのではなく控えめに表現することでさりげなく聴かせようとしているのです。そのことで彼の演奏は指揮者の意志力で曲を背後から駆り立てるというよりは変化に伴い受け身に変わってゆくようなものになっていて、柔構造めいた融通無碍な流動性を示しつつも均整美を見失うことがありません。多くの指揮者たちがこの曲を古典的な形式の枠組みの中に連れ戻し閉じ込めることで失われる風のような自在さを保ちつつ、この曲が痕跡のように残している古典的な形式感をも決して裏切らないのです。この「スコットランド」という曲の特質にこれほど寄り添い、その独自性をかくも見事に描き出した演奏には他に出会ったことがありません。この曲のあるいは最初の録音だったかもしれないワインガルトナーの古い古い録音が、にもかかわらず伝えてやまぬ名人の一筆書きのような草書の美。それは僕に風を連想させずにおかず、ひいてはかつて陰謀劇の舞台となった古城の前に佇むメンデルスゾーンが耳にしたかもしれぬ風の声、古の戦いの鬨の谺や悲愁の織りなす無常の響きの幻想にさえ誘う力を盤面に留めているのです。
 なぜこんな演奏が可能だったのか。これはもう頭で考えた結果というよりワインガルトナーその人の美意識や人間性がメンデルスゾーンのそれに近かったのだと考えるべきもののような気さえします。たとえばロンドン響時代のアバドがDGから出した全集録音は5曲の交響曲の変遷の行く先を考察していることが窺える点において極めて興味深いものですが、それゆえ考え抜いた末に決定された解釈という感触もつきまとい、およそ融通無碍からは遠い演奏なのも決して否定はできないのですから。

 そんなワインガルトナーが一人の指揮者によるベートーヴェン交響曲全集を最初に完成させたということは、当時における彼のベートーヴェン演奏が今からは想像し難いくらい高く評価されていた証であるだけでなく、往時のベートーヴェン像や美意識がその後のものとは異なるものだった可能性をも示唆しているような気もします。ストコフスキーはいうに及ばず、メンゲルベルクやフルトヴェングラーさえセッション録音だけではその生涯にベートーヴェンの9曲全部を遺せなかったことを思えば、当時ワインガルトナーの扱いは破格だったとしかいいようがありません。
 ワインガルトナーはベートーヴェンに対してもメンデルスゾーンと同じ姿勢で接していますが、結果としての演奏ではテンポの動きがより控えられ古典的な輪郭が前面に打ち出されている点に受け身の姿勢だからこそキャッチしているものもあるのだと感じさせるのがこの人ならではで、ベートーヴェン特有の粗野な迫力が均されているきらいはあるものの、それが当時の美意識だったとの確かな手応えも感じさせます。そして大戦中の1943年にスイスで亡くなったワインガルトナーの時代の美意識がしだいに消えゆくしかなかったことも。
 ステレオ初期のベートーヴェン全集には、ワインガルトナーの面影を感じさせるものがそれでもまだありました。弟子であったクリップス/ロンドン響をはじめクリュイタンス/ベルリンフィルやS=イッセルシュテット/ウィーンフィルなどどれも無理にスケールを広げすぎず、端正な造形と当たりの柔らかさを多かれ少なかれ感じさせるもので、それがワインガルトナー的美意識がいかに当時の音楽土壌に深く根を下ろしていたかの証だったとも思えます。けれどそれらはやがてよりスケールの大きさや堅固な骨格、ひいてはベートーヴェンならではの先鋭さを重視する演奏に置き換えられていったのです。70年代末に当時シドニー響の指揮者だったオッテルローの交通事故死で未完成に終わったベートーヴェン集がメモリアルとして後に出たとき、僕にはこういう美しいベートーヴェン演奏の時代が終わったことを示す墓碑銘にさえ見えたものでした。

 現在一般のクラシックファンはいうに及ばず、ヒストリカル録音の愛好家たちの間でさえワインガルトナーへの関心は高いとはいえません。SP録音時代の発売点数ではトップクラスの存在であったにもかかわらず、ウィーンフィルとの組み合わせの音源を除けばほとんどはめったにCD化されず、新星堂がまとめて復刻した大全集も再評価の動きには繋がりませんでした。往年の大演奏家たちの多くが出所の怪しいライブ録音や放送録音まで探索の対象となっている中、ワインガルトナーだけは全くそんな音源が出てこないというのはもはやただごととは思えませんが、それはやはり誇張を体質的に忌避する彼の音楽性が、整った美演よりも八方破れの爆演をむしろ尊ぶ愛好家たちの嗜好とそれだけずれているからだとも感じるのです。
 そしていま、マーラーがかつてなく聴かれるようになったこの日本において、聴き手のメンデルスゾーンへの関心は反比例的に低くなっているとも見えるのですが、僕にはそれがワインガルトナーへの関心の低さとどこかで繋がっているように思えてなりません。そしてストコフスキーやメンゲルベルクはもとよりナチスドイツに留まったせいで長らくマーラーを演奏できなかったフルトヴェングラーでさえ1曲だけとはいえマーラーの録音を遺している一方で、ワインガルトナーはマーラーのみならずチャイコフスキーの作品さえ録音していないのです。

 メンデルスゾーンが古典的なスタイルから脱却し始めたとき、彼が目指した道はチャイコフスキーやマーラーへと続くものではおそらくなかったのではないだろうか。ワインガルトナーによる「スコットランド」の古いSP録音は、そんなことまで示唆するもののように思えてなりません。作曲家でもあったワインガルトナーには7曲に及ぶ交響曲があり海外では全集録音が出ていると伝えられていますが、穏健な作風と評されているのがいかにもと思えると同時に、あるいはそれがメンデルスゾーンのたどり着けなかった道を示しているかもしれないとも考えたりしている次第です。

 そしてそんなワインガルトナーが4曲のブラームスを録音したほぼ同じ時期にストコフスキーも全集を完成したということは、ブラームスの音楽がメンデルスゾーンとは異なり分かたれた道のどちらからもアプローチ可能なものであることの証ではないかとも。


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