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2017年07月04日21:15

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太田愛の小説作品:その9

 3作目『天上の葦』での僕にとって最も印象的な場面はやはり山波が正光と出会い語らう場面でしょう。そして白狐が回想する若き日の正光にはかなりのページ数が費やされていますが、彼でさえ会ったことのない年老いた正光の姿が描かれるのは山波とのこの場面だけで、しかもここでの正光の姿にはあるデジャビュがつきまとうのです。終の棲家の老人ホームで背筋を伸ばし、新聞や本を友として暮らす独り身となった老人。『犯罪者』の終章に登場する滝川の被害者の1人たる今井清子の夫、貞夫の姿が。
 あの「新盆」の章に登場した4人の遺族たちの最後を飾る貞夫は単に老人ホーム暮らしという境遇が共通しているのみならず、むしろ人としてのあり方にこそ正光を連想させずにおかぬものがあります。娘や連れ合いを奪われ癒えぬ痛手を抱えた遺族たちの誰よりもその事実に正面から向き合い、公判になるなら傍聴席で見届けるという貞夫の精神性。それが山波に問いかけずにいられなかった正光の場面で瞬時に思い出されたのです。
 そしてこの3作目では、文字通り巻頭でその死が描かれる正光の遺志を山波が、白狐たちが、そして鑓水たち3人組もまた受け継いでゆくという『犯罪者』と共通する展開になってゆきます。その経緯も1作目では企業犯罪との苦しい戦いの記録であったのに対し、3作目では国民を守るべきものと見なしていなかった戦時下の国の施策ゆえに甚大なものとなった空襲被害の証言という相似形をなすものであり、これまた1作目を提示部、3作目を再現部に見立てうる極めて器楽的な構成原理に則っています。

 ただ僕はこの場面を読むと、2つのことを痛感せざるをえず、そのことに愕然とし、ひいては後悔めいた思いを禁じ得ません。1つはまさに今、こうして戦争体験者からその話をじかに聞けた時代が終わろうとしているというまぎれもない事実であり、もう1つは僕自身がこれまでそうする機会があったにもかかわらず、ついに父や叔父から正面きって聞くことなく過ごしてしまったという思いです。終戦時に江田島の海軍兵学校にいた父は実戦には出ないまま終戦を迎えたにもかかわらず、敗戦により軍人への道が絶たれたとき、ならばこれから自分は人の命を救う仕事をしようと勤務医になったのでした。でもその顛末は母から教えられたものであり、その決意に至った思いを父から聞くことはなかったのです。父の方から話してくれることは結局ないままでしたし、無理に聞き出そうとその頃は思いませんでしたから。また叔父は同じく海軍で人間魚雷の訓練を受けていた最中で、終戦があと1週間遅ければ出撃していたはずでした。このことも叔母を通じて知っただけで、本人から話を聞くことはないままでした。そんな話を子供にしたくなかったのか、同じ時代を生きた者には話せてもその時代を知らぬ者にいってもわからないと思ったのかさえ、今となってはもう知るすべがありません。そして今そんな僕と同じく戦争を直接体験していないはずの2世3世世代の政治家たちのあまりに粗雑な言動に接するたびに、我々の世代がもう少ししっかりしていればここまでひどいことにはならずにすんだのではという気がして仕方がないのです。

 もはや戦争について直接的な実感を持たぬ人だけの社会になるこれからの時代は、戦争体験の実感に基づく戦争観を共有できぬ時代にならざるを得なくなる。遠からずこの場面を絵空事という人も出てくるのではと思うとき、なんともいえぬ悔しさがつのるばかりです。


その10(作者からの手紙) →
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(三部作読了済のマイミクさんのみを対象とする限定公開)



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