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2018年09月17日21:54

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三河武士は二度、天下を取った。

一昨日の土曜日に、「平成30年度県史連続講座」なるものに行ってきました。

今年度は中世の尾張・三河についてのお話で、私が抽選に当たって参加できたのは、
「第1講座 戦乱と躍動する人びと」でした。
講座というより、中世史専門の各大学の教授による講演会です。

3時間半という長いもので、3人の教授が三河、尾張、そして信長以降というテーマで、50分ずつお話してくださいました。

私が「戦国時代嫌い」なのは、前にも書きましたが、この地方は特に三英傑の残影が強烈過ぎて、それで興味を持てずにいたからです。

家康が最終的な勝者なので、近世(江戸時代)以来の「松平・徳川史観」によって、中世の三河地方の実像も長らく見えにくくなっていた。
しかし近年は室町幕府と三河の関係を正しく捉えた研究成果も出、新しい研究が進んでいる。

個人的に一番興味深かったのが、1時間目の「中世三河の群像 〜足利氏から松平氏まで〜」のお話でした。

簡単に説明すると、源義家に2人の息子がいて源家は2つの系統になった。
熱田大宮司家には2人の娘がいて、一人は源氏嫡流の源義朝に嫁ぎ、もう一人は傍系の足利義康に嫁いだ。
源義朝と娘の間には源頼朝が、足利義康と娘の間には足利義兼が生まれた。
足利義兼の息子の足利義氏が承久の乱(1221年)後に三河国の新守護に任ぜらた。
足利義氏は執権北条氏とも結びつきがあり、鎌倉幕府の最重要人物だった。

足利義氏の5代目の子孫が足利尊氏。(やっと繋がった!)
「三河を基盤とする足利氏の実力が示されたのは鎌倉幕府滅亡の段階」ですって。

足利尊氏が鎌倉幕府打倒に踏み切るさい、一門の長老として補佐したのは吉良氏。
先の足利義氏の長子が吉良家の祖で、その息子の一人が今川氏の祖となる。
足利尊氏は足利義氏の二男・泰氏の系統で、これが足利家嫡流。

さらに細川氏(三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺))、上杉氏(足利尊氏の生母が上杉氏の出)、一色氏(先の足利泰氏の子が祖。三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町))など、よく知られた家名がいくつも出てきます。
で、地図で見るとほんとにご近所さんなんですよ〜。東三河に集中してる。
細川氏が愛知県の出自だなんて知りませんでした。
今川氏も遠江…静岡県じゃないんです。

それで、「三河武士が創業の主体となったのは江戸幕府だけでなく、室町幕府も同じ」ということなのだそうです。


室町時代、三河には将軍直轄領である御料所と、直轄軍たる奉公衆が多く置かれ、重要地域と見なされていた。
歴代の三河守護には足利氏の側近や一門の有力者が任命された。
応仁・文明の乱にかけて、前三河守護の一色氏と、現三河守護の細川氏とが反目しあい、現地支配が不安定化する。
守護や守護代から有力な戦国大名が育ちにくく、将軍側近の伊勢氏(上記の奉公衆)の被官だった松平氏(愛知県豊田市松平町)が勢力を伸ばすチャンスがあった。

以上です。
源頼朝から織田信長・徳川家康まですっ飛ばした知識しかなかったので、勉強になりました。
松平郷に行ったことがありますけど、松平=徳川家の出自ってほんと作り話臭いというか、胡散臭いので(笑)、そこからどうやって出世していったのかよく知りませんでしたね。
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