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2016年09月16日07:33

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古代日本の転換点15−光明皇后が恐れ憎んだ聖徳太子の正体

●無残に打ち砕かれた安宿媛の夢、失われた現実との絆-----------------

呪われた自分の宿命から救われるべく「金光明経」と「法華経」に光を見いだし、「13−聖徳太子の遺志を継ぐ聖武天皇と光明皇后」で見たとおり、まるで聖徳太子の手足となって働いた安宿媛。

それはまるで、聖徳太子を「代理父」となし、「金光明経」のエピソードに出てくる女性・福宝光明を「代理母」とみなし、自分はその子供であるかのように通称を「光明子」(光明の子)に代えてまで善行を積むことを自分に課した安宿媛。

特に、天然痘がはやりだしてからは、その害が一族に及ばないように法華経講読の法会や五千余巻の経論の書写という大事業を始めたり、法隆寺に施入したり・・・大車輪でした。

けれど、それまでの約20年に及ぶ努力の数々をあざ笑うかのごとく、その翌年、なんと藤原四兄弟全員が亡くなったのです(737)。この衝撃と無力感は、尋常ではなかったことでしょう。

716年に首皇子の皇太子妃となって以降、夫・聖武天皇とともに聖徳太子の手足となって教えを広め、持統&不比等が封印した神(アマテル&瀬織津姫)を蘇らせてきた20年。
ハンセン病者の膿を自ら口で吸い出したという伝説まで作られる程、その姿を(cが想定する誰かに)見せてきた20年。

それは、善行を積むことによって将来菩薩に生まれ変わりたいという悲願でした。その悲願の活動は、畿内七道地震によって激しく揺さぶられ、そして、藤原四兄弟滅亡によって無残に打ち砕かれたのです。

特に自分の後見人であった次兄・藤原房前の死は衝撃だったと思われます。親から愛を得られない子供達は、兄弟で親子をする場合がありますが、おそらく安宿媛にとって房前は代理父親だったでしょう。どれほど慕っていたのかが、翌年藤原房前の一周忌に法隆寺に施入したことでもわかります。

もしかすると、この虚構界で唯一リアルを感じることのできた“肉親の情”。それがあったからこそ、別人(光明子)となって頑張ることができたのかもしれません。そのかろうじて繋がっていた現実との絆を無慈悲に奪われ、自分を天涯孤独に突き落とした怨霊。

どんなに善行を積んでも無駄と言われているのか、こんなものでは足りないと神はまだ私を試されているのか・・・安宿媛は、凄まじい思いの中にあったのではないでしょうか。そして、そのやりきれない思いは、神ではなく怨霊に向かったことでしょう。



●不気味な聖徳太子等身像(救世観音像)---------------------

兄たちが亡くなった年、その4兄弟分とも言える経を納める箱を法隆寺に奉納していますが(737)、もし菩提を弔うなら国営となった立派な氏寺・興福寺があります。それを興福寺ではなく法隆寺に対して行っていることで、法隆寺におわす霊に対して捧げた、もしくは鎮魂の行為だとわかります。

けれど鎮魂するだけではありませんでした。739年には聖徳太子一族の斑鳩宮跡に法隆寺の東院(上宮王院)を造営したのです。表向きは聖徳太子の供養塔として建立され、その眼目が夢殿でした。

そこに救世観音像が安置されたわけですが、それは聖徳太子等身像と言われており、なぜか封印されました。そして、明治になってようやくのことフェノロサの手によって、その封印が解かれたのです。

その像は白布でぐるぐる巻きにされており(まるでミイラ)、フェノロサらがそれを開くときに、僧たちは恐れをなして逃げ出したという曰く付き。

開いてみると、なんと観音の頭の後ろの部分と心臓の後ろの部分に光背が釘で打ち込まれていました! まるでドラキュラ。

ドラキュラのように封じた後、さらにミイラのようにグルグル巻きにして、それを決して現実世界に出てこられないように「夢」殿に封じて・・・二重三重に結界を張り巡らせています。

まるで藁人形に五寸釘を打ち付ける「丑の刻参り」を、仏像でやったかのような・・・なんとも不気味ですね。




●光明皇后が恐れ憎んだ聖徳太子-----------------------------------

皆様は、どうお感じになったでしょうか。
私は、恨みがなければこんなことはしないだろうと思います。
それに、「もう二度と蘇るな!」―そういう強い念が感じられます。

でも・・・光明皇后は聡明で、光明子といわれるくらい輝く美貌を持ち、仏の慈悲を実践された菩薩のようなお方。まさかそんなこと―するはずもない、と思いますよね。

けれど、存在不安の強い人間、ストロークがほしい人間というのは、不安から逃れるために手段を選ばないことを私は体験から知っています。誰かに「見せる」ためには、膿を口で吸い出すくらいのパフォーマンスもすることを知っています。普通では考えられないことをやってのける例はたくさんあります。


数奇な宿命を背負って存在不安の塊となった鸕野讃良(持統天皇)は、我が子や孫のみならず神さえも葬り去って、自らが神(アマテラス)となりました。

呪われた血の宿命を克服せんと「光明子」と名まで変え、獅子奮迅の努力で聖徳太子のために働いた光明皇后は、聖徳太子の等身像(救世観音像)を作らせ、その頭と心臓を打ち抜いたのです。

これは、聖徳太子を「2度殺した」「2度葬った」ことになりますから、あきらかに“善行”ではありません。これをすることによって、“善行を積んで将来菩薩に生まれ変わる”という夢そのものを安宿媛は葬ることになります。「夢殿」という名は、自分の夢の供養塔として名付けたのかもしれません。

この光明皇后の行為を見ますと、光明皇后は聖徳太子を尊敬したからその理想を実践したのではなく、自分が救われたく、かつ聖徳太子を恐れたから実践したのであり、そして、そのすべての努力が無残に潰えたから太子を憎み、もう二度と祟りをなすなと頭と心臓を打ち抜いたように思えます。

つまり、光明皇后は聖徳太子という人物をよく知り、かつ自分との因果関係も知っていたということです。

では、聖徳太子とは誰だったのでしょうか?




●聖徳太子の正体-------------------------------------------------

安宿媛を皇后にするために運命を変えられた人々は、次のようにたくさんいます。
・文武天皇
・幽閉されている姉宮子
・旧都に幽閉された物部氏
・封印された神々と神社
・旧豪族勢力と隼人・蝦夷双方に流された無駄な血
・長屋王一族

これらの血は天智朝復興のため、その前の持統&不比等の頃から天武の皇統を絶やすべく流され続けています。その発端は?

そう、中大兄皇子(天智)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我入鹿の首をはねた「乙巳の変」(645)からですね。あの一点から歴史はねじ曲げられ始めました。天智朝を作らんとする藤原一族の野望の原点は、まさに「乙巳の変」にあったのです。

乙巳の変は、安宿媛が生まれるわずか56年前のこと。何があったのかはわかったことでしょう。すると、これほどの天変地異を鎮めるべく、もし鎮魂するとすれば誰を鎮魂するでしょうか。

自分に直接関わる長屋王一族はもちろんですが、確執の大原点、自分たちの祖―天智天皇&藤原鎌足が殺した相手を鎮魂するのではないでしょうか。

ということは、光明皇后が意識していた相手は蘇我入鹿のはずです。

光明にとって、その相手が祀られているところが法隆寺であり、施薬院、悲田院を設けた相手であり、「金光明経」「法華経」を広めた相手―その相手がなさんとしたことを光明は懸命にやってきました。

そして、その努力が大地震に天然痘に四兄弟の滅亡という無残な結果となって終わった時、虚無と絶望と憎しみと、そして「残るは自分」だけという恐れが襲ったのではないでしょうか。

739年、光明皇后は「不予」とあります。不予とは不快なことや病気を表しますので鬱的になったのでしょう。そのとき、光明皇后は“相手”との今後をどう考えるか、深く思い悩んだことでしょう。

そして、結局、命を取るか取られるか、そこまで追い詰められたのではないでしょうか。そこで、その相手の等身像を作らせ、もう二度と祟るなとばかりにその相手の頭と心臓に杭を打ち込んだのです。


ということは・・・
「聖徳太子」と通称されている人物は、
「蘇我入鹿」ってことになりますね。

Wao!
聖徳太子の正体は蘇我入鹿だった!








・・・ビックリしました。
まさか、こんな処に辿り着くとは・・・

必然的に辿り着いてしまいました。他意はありませんので、悪しからず。
このシリーズ、書いている自分も実は驚くことばかりで、ネットで拾える事実や年表を紡いでいくと、自然と浮かび上がってくるのですが、そして、浮かび上がってきたときに「へぇ!」と驚きながら進んでいるわけですが・・・光明皇后の行動を追っていくと、とんでもないところにたどり着きました。ほんとにビックリしたね〜〜。




<続く>





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