mixiユーザー(id:7361668)

2016年03月01日00:30

1657 view

『DEATH NOTE』にみる『マクベス』的要素と構造

ストレス発散の駄文。新作とかもあるし。
きちんと文献とか引いたわけでないです。
訳文や登場人物名は,小田島雄志訳白水uブックス刊の『マクベス』に基づきます。


作:大場つぐみ,作画:小畑健による漫画『DEATH NOTE』はその物語の構造において,シェイクスピアの戯曲『マクベス(Macbeth)』的要素を見ることができる。
ここで言う「構造」とは,あくまでも骨組みの中に読み取れるいくつかの要素のことであり,『DEATH NOTE』が『マクベス』を下敷きにした物語であるとか,ましてや剽窃であると述べるものではないことに注意されたい。『マクベス』という古典的な物語の中から一般化された要素を再認識し,『DEATH NOTE』のストーリーの解釈や考察の深化の一助となる見方を提供するものである。

はじめに『マクベス(Macbeth)』の概要をまとめる。『マクベス』はタイトルになっている,スコットランドの将軍「マクベス」を主人公とした年代記であり,『ハムレット(Hamlet)』『オセロー(Othello)』『リア王(King Lear)』と併せて,四大悲劇と呼ばれることもある。物語のあらすじは,魔女たちから「スコットランドの国王となる」という予言を受けた将軍マクベスが,現王ダンカンを暗殺し予言を達成するも,最終的には打ち倒され破滅を迎えると言うものである。
物語の起点となるのは,「魔女の予言」という超常の力の介入である。反乱軍とノルウェー軍の連戦に勝利したマクベスは,友人バンクォーと共に凱旋する道中に三人の魔女と出会う。魔女たちは,マクベスに「グラームズの領主,コーダーの領主,将来の国王」という言葉を残して消えていく。現グラームズ領主であるマクベスは,彼女らの言葉をいぶかしむが,ダンカン王から褒賞としてコーダー領主の地位を与えられたことで,それが予言であったことを知る。そして最後の予言である「将来の王」が己の確約された運命であるとして,ダンカン王を暗殺するのである。
ここで重要なことは,「魔女の予言」の介入がなければ,マクベスは善なる英雄であったはずだということである。魔女の予言を受け,さらに第一の予言が実現するまで,マクベスには王冠へ確固とした野心はなかったはずである。それどころか,予言の実現のあとにもマクベスは,「王位への誘惑に屈する」ものの,己の罪深さに慄き「運がおれを王にするなら運にまかせればいい」と結論付けている。王や友人の謀殺を図り,悪逆の果てにその報いを受ける『マクベス』の物語が,「悲劇」として位置づけられるのは,このように本来は善なる存在が,超常の,それも悪しき力によって破滅の道を辿るという構成のためである。

さて,この「本来は善なる存在であるマクベス」を『DEATH NOTE』の主人公である「夜神月」に,「魔女の予言=悪しき超常の力の介入」を「死神のノート」に対応させることについて,強い異論はないであろう。優れた能力を持つ夜神月は,冒頭から「世の中に退屈している」という描写はあるものの,それ自体は「悪しき野望」ではなく,ノートの記憶を失った状態の行動から本質的には「善の存在」であると捉えて良いだろう。(注1:キラの行動の是非など「善悪」の定義についての議論は本稿の本質ではないものとして省略し,物語の役割から「善」「悪」という分類を用いる)すなわち,『DEATH NOTE』もまた超常の存在の介入によって運命を狂わされた夜神月の「悲劇」であると捉えることができよう。(TVアニメの最終回はこの要素を強く押しだしていたように感じる)
では,マクベスにとっての「第一の予言」に対応するのは何であろうか。初めて「死神のノート」が効力を発揮した場面と考えれば,それは「渋井丸拓男(シブタク)」の殺害であろう。この時点では,夜神月はノートの能力について半信半疑どころか,ほぼ否定的であった。しかし,ノートの力は本物であり,渋井丸拓男は事故死してしまう。この「殺人」は,キラによる「処分」と比較して明らかに異質である。その後の一連の行動は,この出来事を夜神月が自己の中で正当化する意味合いもあったと捉えるのは,やや拡大解釈ではあるが,的外れなものではないだろう。きっかけであるとともに,後戻りのできない状況へと追い込まれるイベントとみるならば,『マクベス』における「第一の予言」と「ダンカン王」の暗殺の両方を兼ねるとして捉えられるだろう。

さて,『マクベス』の悲劇としての構造は上記の要素のみで語ることができるが,そのほかに興味深い対応をみることができる。そのひとつが,友人バンクォーの存在である。バンクォーもまた,マクベスとともに魔女の予言を受けるが,それは「国王にはならないが国王を生み出すかた」というものであった。平時であれば王冠は血族に継承されるものである以上,この予言は「マクベスの治世はバンクォーの子孫によって奪われる」ことを意味する。この予言を恐れたマクベスは,王となった後にバンクォーを謀殺するのである。
「善なる状態」からの友人であることや,バンクォー自身がマクベスを糾弾する存在でなかったという違いはあるが,「主人公であるマクベスと並ぶ存在」であり「その後継者がマクベスを打倒する」という立ち位置から,このバンクォーと夜神月のライバルである「L」を重ねて見ることができるだろう。ただし実際には『マクベス』劇中において,バンクォーの息子フリーアンスはマクベス打倒の役割を果たさない。実際にマクベスを打ち破り王冠を取り返すのはダンカン王の「二人の王子」のうちの一人であるマルカムである。ライバルと言う立場は対応しないが,主人公によって打ち倒された者の後を継ぐ「二人」というキーワードは,『DEATH NOTE』におけるLの後継者であるニア・メロを想起させるものがある。
なお,戦場において直接マクベスを打ち倒すのはマルカムが指揮する軍団に参加する貴族マクダフである。このマクダフは「女から生まれたものには負けない」というマクベスが受けた予言を,「月たらずのまま母の腹を裂いて出てきた(帝王切開)」ことにより打ち破る。このやや苦しい打倒法を,『DEATH NOTE』終盤の「ジェバンニが一晩でやりました」に比較してみるのも,お遊びとしては面白いだろう。

ここまで,両者の対応する要素をみてきたが,ここからは『マクベス』における重要なファクターでありながら,『DEATH NOTE』では見られない重要な要素を考える。
それは「マクベス夫人の存在」である。マクベス夫人は,夫から魔女の予言の話を聞いてその「超常の力の加護」を確信し,躊躇するマクベスにダンカン王の暗殺を唆すのである。その苛烈な物言いから悪女として述べられることもある夫人であるが,彼女は『マクベス』劇中のみならずシェイクスピア劇すべてにおいても稀有な存在である。その理由のひとつが彼女に「名前」が与えられていないことである。物語において重要な役割を持ちながら,個人としての名前が存在しないキャラクターは,シェイクスピア劇においてまず見られない。また,日本語の訳本では伝わりにくいが,彼女が語る言葉の主語はそのほとんどが「We」であり,「I」ではじまる個人としての言葉はごくわずかである。(参考:松岡和子著『シェイクスピア「もの」がたり』)これらのことから,マクベス夫人は「マクベスの野心家としての別人格」として見られることがある。なお,これはマクベスが多重人格で一人芝居を演じているという意味ではないことに注意を願いたい。「真の結びつきをもつ夫婦はひとつの人間に等しい」という,ソネットなどでも語られるシェイクスピアの夫婦観に基づくものである。マクベスの破滅は,このもう一人の自分から離れ,独自に行動を開始してからはじまったとみることもできる。
『DEATH NOTE』において,このマクベス夫人に近い立場の存在を考えるなら,「もうひとりのキラ」こと「弥海砂(ミサミサ)」が挙げられるだろう。しかし,その立ち位置は終始「夜神月の手札のひとつ」で,表裏一体や,行動を導く存在であったとは言えない。むしろ,その役目を考えるならば「死神」リュークの方が近いかもしれない。リュークというキャラクターは同時に,『マクベス』に対応する者はいないが,シェイクスピア劇の定番である「道化」の役回りにも対応している。
以上のように,『DEATH NOTE』は,『マクベス』の翻案やそれを下敷きにした物語ではないものの,「超常の存在によって運命を狂わされた悲劇」という共通点をその構造に見ることが可能である。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する