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2018年08月29日13:47

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救仁郷家ルーツ その3

「救仁郷朝元」が出家して第36世別当となった「飯隈山飯福寺」は天台宗本山派修験の総本山聖護院(修験道)の末寺。
この寺の別当(院号「蓮光院」)は国内28正先達家の一つで、九州五ヶ国法頭かつ三州の年行司職を兼ねるという、聖護院系の修験の道では無茶苦茶偉く、毎年御祈祷の御札を朝廷に献上し、参内まで許されていたというから驚きです。
簡単に言うと修験者・山伏の南九州における元締めだったのです。

創建はめっぽう古く、慶雲五年(708)で、修験道の始祖である「役小角(役行者)」の直弟子、「義覚」が開祖で、慶応3年・明治初年(1867)の廃仏毀釈の嵐に飲み込まれ廃寺と成るまで1200年近い歴史を持っていました。

創建時の神領境域は周囲四里二十町三十一間(18km弱)、石高も1000石もあったそうですが、現在は鹿児島県曽於郡大崎町神領に僅かな遺構を残すのみです。

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  「飯隈山飯福寺」跡 門前

233cmもある大きな「仁王像」がありますが、吽像は両腕が無く、阿像は首から上もありません。
鹿児島では「仁王像」は大きすぎる所為か、廃仏毀釈の騒動にても破壊され切れず結構残っているそうですが、こんなに大きいのは珍しいそうです。
階段の上に鳥居が見えますが、俗に言う「神仏混淆」で熊野神社の神宮寺で、別名「新熊野三所権現」、照信院とも号されていました。

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  「飯隈山飯福寺」跡 本殿?

鳥居をくぐると小さな建物があり、2体の仏像が安置されています。
聖観音像と如意輪観音像かと思われ、左の聖観音像には造立者は朝安法印という銘があります。

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  「飯隈山飯福寺」跡 聖観音像と如意輪観音像?

多くの論考に創建の頃から修験道と熊野神社が勧進されていたとしていますが、昭和の郷土史家「救仁郷断二」氏は、
“もともと熊野神社は「救仁郷」氏の氏神で、「蓬原城」に勧進されていた。「島津氏久」氏はその熊野神社を取り込むために「救仁郷朝元」を許し、「飯隈山飯福寺」の別当としたのでは無いか”
と言った主旨の記述を残されています。

廃仏毀釈後、熊野神社が蓬原の地に戻ったりしていること。
「島津氏久」の引き立てにより妻帯の勅許を受けたり、藤原氏を始め有力公卿に猶子なったりとの厚遇。
これらを見ると「救仁郷断二」氏の推論に大いに納得出来るです。

つづく

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