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2018年08月27日15:32

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救仁郷家ルーツ その2

次に「救仁郷」氏が記録として出てくるのは、建武元年(1334)の『薩藩旧記』で、「救仁郷源太、同郷弁済使宗頼一類」という人物が記載されています。
この源太というのは、源氏の流れを組む家の長男と言う意味で、この頃には源氏であることを公称(私称?)していたことになります。

本姓伴氏で大隅一帯を本拠とした肝付氏の「肝付系図」によると「肝付兼俊」の子として「救仁郷兵衛佐兼綱」が記載され、さらに3代の「救仁郷」氏が書かれているとのこと。

豪族としての「救仁郷」氏は「救仁郷蔵人助頼世」が延文四年(1359)に討死するまで、現在の志布志市有明町にある「蓬原(ふつはら)城」が本拠でありました。

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 「蓬原城」趾


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 「蓬原城」趾案内板


志布志市教育委員会がまとめたこの案内板によると、
「救仁郷頼綱」とういう人物が加賀国から下向し、蓬原片平の小城に居て、後に「蓬原城」を居城にしたと「木場家文書」や「志布志由緒記」に書かれています。
との記載されてます。

この辺りの文献は読んだ事が無いのですが、「渋川満頼」が九州探題として鎮西に下向して際に、加賀からきた「渋川満頼」の子の「頼氏」が伴姓「救仁郷四郎左衛門尉頼綱」の娘を娶りました。
「頼綱」の娘が生んだ子、のちの「忠綱」が外祖父「頼綱」から「救仁郷」氏を譲り承けて蓬原城主を継承したとなっているようです。

しかし、「渋川満頼」の鎮西に下向は応永三年(1396)のことですので、豪族としての「救仁郷」氏が滅んだ延文四年(1359)と矛盾します。
おそらく、鎌倉後期に本姓伴氏肝付一族の「救仁郷」氏に源姓の一族と称した人物が入り婿等で入り、源氏の血を導入したと言い張り、時代が過ぎるにつれ、どこかでその謎の人物と「渋川満頼」が混同してしまったのでしょう。

年代・人物の誤認はあるものの、「救仁郷」氏が「蓬原城」を居城し、大崎町・志布志市一帯に勢力を得ていたことは確かで、すると案内板にある「蓬原片平の小城」から「蓬原城」へ移ったことはあり得ます。
そこで探しました「蓬原片平の小城」。

「古蓬原城」または「片平城」と言われていた「蓬原片平の小城」は現在史跡等にはなっておらず、ネットで実際に行った城郭マニアのブログを発見しましたが、住所等は無く簡単には見つかりません。
が、なんとか発見しましたので行ってきました。

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 「蓬原片平の小城」跡
  北緯31.470044,東経131.045641

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  菱田川下流から見る「蓬原片平の小城」跡


こうして「救仁郷」氏の居城は確認出来ました。


「救仁郷」氏は南北朝期には「楡井遠江守頼仲」にかなりの所領を奪われ勢力を落とします。
そして延文四年(1359)には相良氏との国合の戦に敗れた「島津氏久」に援軍を要請されたが応じなかったため、鹿児島に帰り捲土重来した「氏久」に蓬原城を攻略され、「救仁郷蔵人助頼世」が討死にし、豪族としての「救仁郷」氏は滅びます。

どういう理由かは定かではありませんが、「救仁郷頼世」の弟「救仁郷朝元」が許され大崎町の飯隈山別当職に補任され、子孫は同別当職を幕末まで世襲します。
この「救仁郷朝元」が、私の祖先となるわけです。

つづく
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