突々ではありますが、私、あやしい分析屋の名字は「救仁郷」であります。
かなり希有な名字であり、九州鹿児島は大隅半島の付け根、宮崎よりの日向灘に面した地域が祖先の地であり、我が家は明治維新の際に東京に残った家系であることは言い伝えられてきました。
この度、出張で宮崎県の日南市に行ったので、飛行機の時間調整も兼ねて祖先の地に立ち寄ってきました。
地元には何件も「救仁郷」さんがお住みのようですが、全国へ散った「救仁郷」さんにかの地へ行ったら、ここだけは寄ったらいかがでしょうと言う記録を残して置きましょう。
我らの祖先は鹿児島県の大崎町・志布志市一帯に勢力のあった豪族だったとのことで、この辺りはかつて「くに」と呼ばれる地域であったため「くに(救仁)」の郷の豪族、つまり「救仁郷」氏と名乗っていたそうです。
ちなみにここらは現在鹿児島県でありますが、元来日向の国の一地域であったそうです。
この「くに」の名称はは我らの名字以外に「くにの松原」と呼ばれる景勝地に残っています。
「くにの松原」
古い記録から順に追っていくと、鎌倉初期に「救仁郷平八成直」という人が志布志の「松尾城」にいたとされています。
「平八成直」は平姓救仁院一族の出とされ、現在源姓としてる出自と合いません。
が、この人の存在により「救仁郷」氏が鎌倉以前からの一族と推定されます。
従ってまずは志布志の「松尾城」を紹介。
正確には鹿児島県志布志市志布志町にある「志布志城」に4つの郭があり、その一つが「松尾城」と呼ばれております。現在志布志城の新城は志布志中学に成っておりますのでそこを目標に行けばよいでしょう。
小川を挟んで、志布志小学校の裏山の西側部が「松尾城」に成ります。
志布志中学
志布志小学校の裏山(「内城」城趾の案内板)
「松尾城」城趾
つづく
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