私自身は、麻雀はやる。金を賭ける(ええと、犯罪の自白ではありません)。ちょっとまとまった金額が動くこともあるが、盆と正月、GWくらいで、学生時代には週に6日でもやっていたことを考えれば、今のそれは当時の仲間がたまに集まる同窓会のようなものだ
> 「『無力感を与えて矯正する』という目的は同じで、方法論が違うだけともいえるのではないでしょうか」との見解を示している。たしかにこの「目的」も(この分析・推測が正しいとして)問題を含むが、直ちに否ではない。「方法論が違うだけ」というけれど、
そもそもこういうことは、号令をかけたからと言ってすぐに効果を期待することがとっても難しい。それでも何か行動を起こすこと自体の意味は否定しないけれど。それらが積み重なって世論や風潮を動かすということはあるから。ただし!初回の2月は別として、3
> 同署は自殺の可能性もあるとみて調べている。私は自殺そのものは非難しないが、「死に方(手段や場所など)」や環境整備(遺族のケアなど)について最低限守らねばならない条件があると思うし、電車に飛び込むというのは中でも最低の類でいかなる事情であろ
「ここの、この部分についてのコメントですよ」ということをわかりやすくするための本文引用は別として、「結論」「主張の主要な部分」として、この日記を読んでくれている人が当然に既に読んでいるはずの、記事の本文を引用するというのは、バカっぽいし不親
> 2人は事件の直前、一緒に酒を飲んでいたといい、署は、仕事を巡って口論になったとみている。> 田代容疑者は事件後、車で逃走したが、捜索中の警察官が約3キロ離れた路上でこの車を発見。まあ、人を殺すのに使用した凶器が盗品だったとして、窃盗罪のほう
なんだかよくわからないのだけど、同様の疑問を抱いたらしい人の日記に回答的コメントがあって、それでなんとか少し理解できたが、それでもよくわからない。それより不思議なのは、タイトルにしたハムラビ法典の有名な一節を持ち出す反応が、ここまで(少なく