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2016年08月31日06:12

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古戦場めぐり「石山合戦・第二次木津川口の戦い(大阪府大阪市)」

古戦場めぐり「石山合戦・第二次木津川口の戦い(大阪府大阪市)」

◎『石山合戦・第二次木津川口の戦い』
「木津川口の戦い」は、石山合戦において発生した局地戦で、「第一次木津川口の戦い」と次の「第二次木津川口の戦い」があります。第二次木津川口の戦いは天正6年(1578)11月6日、石山本願寺への兵糧搬入を目的とした毛利・村上水軍と織田水軍の2度目の戦い(海戦)で、信長の建造させた鉄甲船により毛利水軍は敗退しました。
天下をめざす織田信長によって、名ばかりの将軍となった室町幕府第15代将軍・足利義昭の呼びかけに、朝倉義景・浅井長政・武田信玄・上杉謙信らが応じる一方で、本願寺の顕如も全国の本願寺門徒に蜂起を呼びかけ、まさに、絶体絶命の信長包囲網が形勢されます。やがて、天正4年(1576)5月、一向一揆の本拠地である大坂は石山本願寺を取り囲んだ信長と、顕如との直接対決の天王寺合戦が火蓋を切ります。この戦いのあと、信長がより包囲を強化したことで、籠城する側の石山本願寺の兵糧が尽きるのも時間の問題と思われましたが、ここに来て、顕如の呼びかけに応じた毛利輝元が参戦します。天正4年(1576) の第一次木津川口の戦いで、本願寺付近の海上を封鎖していた織田水軍は、毛利水軍・村上水軍の使用する焙烙火矢の前に大敗し、毛利軍の本願寺への補給を許してしまいます。
第一次の海戦で、瀬戸内を牛耳る水軍のゲリラ的戦法に見事にしてやられた信長は、屈辱を晴らすべく準備にとりかかり、信長は九鬼嘉隆に命じて、大筒・大鉄砲を装備し、焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を、伊勢国大湊で建造させました。天正6年(1578)6月26日、九鬼嘉隆は完成した6隻の鉄甲船を率い、滝川一益の大船1隻とともに熊野浦を出発し、大坂湾へ向かいました。途中、淡輪もしくは雑賀の海上で、雑賀衆など多数の小船が攻撃をかけてきましたが、九鬼は敵を引きつけて大砲で一斉砲撃するという戦術を使い、これを撃退しました。7月17日には堺に到着し、翌日に大坂湾に到着すると、要所に船を配備し再び大坂湾を封鎖しました。
11月4日、天皇からの勅使(天皇の使い)が、本願寺に使わされました。和睦の話を聞いた顕如は、毛利へも勅使を送ることを要求し、毛利側からも同意がない限り、和睦には応じない構えをみせました。しかし、そのわずか2日後、未だ勅使の訪問を受けていない毛利は、600艘の船団を引き連れて、大坂湾へと到着します。本願寺に兵糧を搬入すべく、木津川河口へと侵入しますが、当然、信長の軍勢は、これを阻止します。
こうして天正6年(1578)11月6日、第二次木津川口の戦い(海戦)が勃発します。毛利水軍が木津川付近に姿を現し、九鬼らが迎え撃つと、毛利水軍は彼らを囲み南下し、午前8時頃から戦闘が始まります。九鬼水軍の6隻の鉄甲船は敵を引きつけて、大将が乗っていると思われる船を、大砲・大鉄砲で集中攻撃するという戦術をとりました。これを恐れた毛利水軍は、それ以上近づくことはできず、数百隻の船が退却していき、戦闘が終了したのは正午頃であったといいます。なお毛利水軍は、この戦いには敗れたものの、兵糧については石山本願寺に無事に搬入したという見方もあります。しかし、補給路を断たれた石山本願寺はしだいに苦境に立たされることになります。この戦いの結果、大坂湾の制海権が織田方のものとなりましたが、この戦いの後も兵糧や武器の搬入や、兵士の入城は行われています。
やがて有岡城の戦いは、翌天正7年(1579)に有岡城も開城され、荒木村重は逃亡します。その家族と家臣がことごとく処刑される中、石山本願寺への総攻撃もまもなく開始されるのではと思われましたが、意外にも信長は、正親町天皇を間に置いての講和を再び持ちかけ、本願寺の明け渡しを要求しました。これには、やはり長島一向一揆と違って、こちらはまさに本拠地で、本願寺門徒の信仰の中心である顕如がいますから、未だ、一向一揆発祥の地である加賀が微妙な時に、ムリヤリな武力行使を避けたのではとも考えられます。また、正親町天皇の勅命にこだわったのも、もともと将軍・義昭の呼びかけで始まった石山合戦を、完全に終結に持っていくためには、「将軍よりも上の天皇の力を借りるしかない」との思いからでした。かくして顕如が講和に応じ、石山本願寺を出たのは天正8年(1580)3月、その後、顕如の息子・教如(きょうにょ)が出て、本願寺が明け渡されるのは8月のことでした。以後、石山本願寺の跡地は信長の物となり、ここで11年に渡る石山合戦が終りを告げました。
【木津川口海戦の鉄甲船】
第一次木津川口の戦いで敗北を受けた信長が、伊勢志摩の豪族であり水軍を率いた九鬼嘉隆に命じて作らせたといわれるのが「鉄甲船」です。『信長公記』では、九鬼嘉隆の建造した6隻の黒い大船に加えて、滝川一益の建造した白い大船1隻が、天正6年(1578)6月20日に伊勢から出航して雑賀・淡輪の水軍と戦い、9月30日に堺湊で艦船式、11月6日に木津川口で九鬼嘉隆の6隻が海戦を行ったことが記載されています(第二次木津川口の戦い)。この戦い以後、本船がどうなったかは不明です。天正10年(1582)の本能寺の変後、大阪湾に投錨したまま放棄され朽ちていったという話や、解体されて数隻の小早などに作り直された話などが伝わります。

◎『有岡城の戦い』
「有岡城の戦い」は、天正6年(1578)7月から翌天正7年(1579)10月19日にかけて行われた籠城戦です。織田信長に帰属していた荒木村重が突然謀反を起こしたことに端を発します。「伊丹城の戦い」とも呼ばれています。
天正6年(1578)7月、三木合戦に参戦し羽柴秀吉軍に属していた荒木村重は、突然戦線を離脱し居城であった有岡城(伊丹城)に帰城してしまいました。織田信長に、謀反を起こしたのです。その後、荒木軍の兵は迫り来る織田軍に恐れをなして次々と逃亡、1万〜1万5000の軍勢は5000にまで激減しました。ここに至り戦局有利と見た信長は11月14日、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝軍と荒木村重軍の先鋒隊が激突しました。本格的な攻城戦は12月8日酉刻(午後6時頃)からで、まず織田軍の鉄砲隊が有岡城に乱射し、次いで弓隊が町屋を放火しました。しかし、有岡城は戦国時代の城としては珍しい総構えの城で守りが堅く、夜の暗さで攻め切れず、逆に戦闘が終了した亥刻(午後10時頃)には、織田軍は万見重元ら多くの近臣と2000の兵を失うことになります。村重は、毛利軍と石山本願寺軍の後詰を期待していましたが、増援軍は現れませんでした。9月2日夜半、村重は5,6名の側近を引き連れ、夜陰にまぎれて船で猪名川を下って、嫡男村次がいる尼崎城(大物城)へ移っていきました。10月15日亥刻(午後10時頃)、織田軍は有岡城に総攻撃を開始しました。総構えの有岡城でしたが内からの攻撃には弱く、守備兵はことごとく討ち取られていき、北ノ砦の渡辺勘太郎、鵯塚砦の野村丹後の両大将は降伏を申し出ましたが受け入れられず、切腹して果てました。増援軍の雑賀衆も白兵戦には弱く、ほぼ全滅しました。11月19日、城守をしていた荒木久左衛門は開城を決意し、津田信澄が接収部隊を率いて本丸に入城しました。ここに有岡城の戦いの戦闘は終結することになります。

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