mixiユーザー(id:7184021)

2016年01月13日06:59

2715 view

横浜市栄区さんぽ「公田町・上郷思金神社から新井沢市民の森」

横浜市栄区さんぽ「公田町・上郷思金神社から新井沢市民の森」

○「子ノ神日枝神社」(若竹町31)
JR大船駅笠間口(横浜側)からバスターミナルに行って、神奈中バスの金沢八景行きのバスに乗り、中野町バス停で下車します。北に上がって行くと、若竹町に「子ノ神日枝神社」があります。中之村の鎮守で、文明年間(1469〜86年)上杉管領家が農業守護のため、守護神として子之神を鎮守したことがはじめとされています。証菩提寺文書によると鎌倉以来の古社といわれています。弘化3年(1846)奉納の手水鉢が残されています。
【子ノ神日枝神社の庚申塔】
参道に、天和3年(1683)、天保2年(1831)、天禄13年(1700)銘の庚申塔などがあります。

○「証菩提寺」(上郷町1864)
中野町バス停まで戻り東に向かうと、次の稲荷森バス停の先を右折すると「証菩提寺」(しょうぼだいじ)があります。岡崎義実が文治5年(1189)、佐奈田(真田)与一義忠の菩提を弔うために建立しました。義忠は、治承4年(1180)石橋山の戦いで源頼朝に従い、25歳の最期を遂げました。岡崎義実の嫡男で現平塚市真田を領し、現在でも「真田尊」として親しまれています。岡崎義実は、三浦大介義明の弟。証菩提寺のある地は、鎌倉時代には山ノ内に属し幕府の護りの要でした。鎌倉三道(上ノ道、中ノ道、下ノ道)の交通の要衝を固めつつ一大軍事基地として、武器の生産のための職人や工人を集めたことは、鍛冶ケ谷などの地名から推測されるところです。さらに建保4年(1216)、源実朝が義忠の追善法要を営んでいます。のちに3代執権北北条泰時の娘小菅ヶ谷殿が阿弥陀堂を建立し、北条政子の十三回忌の供養が行われました。この寺には、寺の創建時に祀られた阿弥陀如来像と、小菅ヶ谷殿が阿弥陀堂を建立して祀った阿弥陀如来像の2躯が安置されています。
【岡崎義実の墓】
本堂背後にある岡崎義実が建てたという大日堂があり、岡崎堂とも呼ばれていました。その一段下には、岡崎義実の墓(五輪塔)があります。また、平塚市の無量寺の近くにも岡崎義実の墓があります。

○「深田やぐら群」(上郷町388)
バス道路に戻って東に向かうと、上郷町にある上郷フィールドアスレチックのコース内に、鎌倉時代の墓所である「深田やぐら群」があります。なお、土地所有者の了解を得ないと見学ができません。やぐらは狭隘な土地に対応する当時の墓地の一つの形式で、山裾に洞窟を掘り納骨、供養の石塔を設けました。そのうちの一つには、五輪塔が浮き彫りにされています。

○「上郷猿田遺跡と深田製鉄遺跡」(上郷町488付近)
現在の上郷高校一帯の「上郷猿田遺跡」から、昭和58年に縄文時代の古墳(約5000年前)、奈良時代までの13戸の住居跡が発掘されました。縄文中期の石皿、打製石斧も出土しています。
【深田製鉄遺跡】
また、山手学院南側あたりから、砂鉄から鉄を取り出すときに出る不純物の「金くそ」や、古代の溶鉱炉のあとである「たたら」跡が発見され「深田製鉄遺跡」とされています。この遺跡の周辺には砂鉄を多く含む堆積層があり、7世紀中頃から9世紀前半に掛けて鉄生産の中心地ではなかったかと考えられています。現在はほとんどが舞岡上郷線道路の下になっています。

○「思金神社」(上郷町745)
神奈中車庫前交差点の東、長い石段の上に「思金(おもいかね)神社」があります。昭和43年頃から白山神社に合祀されるようになり、昭和49年に創建されました。祭神の八意思金大神は智恵の神で、天の岩戸事件や天孫降臨にも大活躍した高天原の名参謀長です。『日本書紀』には、思兼(おもいかね)と記されていますが、当神社は古事記に記されている思金神名で呼ばれています。「八意(やごころ)」とはこの神格への尊称です。「思金(兼)」の語は本居宣長の『古事記伝(八)』に、「思は万葉三に歌思辞思為師(うたおもひことおもはしし)と云る思ヒにて、思慮なり。金は兼にて、数人(あまたびと)の思慮(おもいはか)る悟りを一(ひとり)の心に兼持てる意なり」とあり、一人で兼ね備えているほど頭のいい神様という意味です。

○「上郷市民の森」(上郷町1773)
神奈中車庫前交差点の南にある「上郷市民の森」は、宅造地の中央に残っている小高い森で、主にスギ、ヒノキ、マツの植林になっています。一部は急傾斜地になっていて、尾根の上をつなぐ道とおはちまわりの道があります。

○「はたおり地蔵(桂山公園)」(桂台中16)
上郷市民の森から南西に上って行くと、桂台東に「桂山公園」があります。公園内の小山の斜面にやぐらのように掘り窪めた穴があり、その中に珍しい形の石造りの「はたおり地蔵」が祀られています。普通の地蔵は錫杖と宝珠を持っていますが、このお地蔵さまは錫杖の代わりに機を織る(横糸を通す)時に使う「杼(ひ)」を右手に、糸玉を左手に持っています。享3年(1686)の銘があります。もとは、上郷町西ケ谷にありました。

○「新井沢市民の森」(公田町)
桂山公園からさらに南に向かい、鎌倉パブリックゴルフ場への石段を上ると市境尾根ハイキングコースになります。心地よい尾根道を西に向かい、鎌倉市にある散在ケ池森林公園への分岐を直進(右折)し、「新井沢市民の森」に入ります。
【皆城山(標高101m)】
新井沢市民の森の中、左に炭焼小屋への道を分けてなおも尾根道を行くと、笹竹の短いトンネルを抜けると目の前が開け、「皆城山」(標高101m)の頂上に着きます。頂上には展望台が設けられているので、景色を楽しみながら休憩できます。この日は曇りでしたが、解説写真図によると、左手には丹沢・富士山・奥多摩・奥武蔵・奥秩父の山々が、右手には円海山・東京湾・筑波山が見渡せるようです。

○「新井沢の庚申塔」(公田町1035付近)
新井沢市民の森から新井沢に沿って北西に天神橋へと向かうと、公田小下交差点の200m手前の右手崖に「新井沢の庚申塔」があります。左から、石祠、安政7年(1860)銘の庚申塔、青面金剛童子、朽ちた石仏(?)、朽ちた庚申塔(?)が並んでいます。

○「アラハバキの小祠(アラハバキ橋小公園)」(公田町627)
なおも新井沢に沿って下って行くと、栄図書館の200m手前に「アラハバキ橋小公園」があり、消防団詰所の左側を回り込むと、火の見櫓の後ろに「アラハバキの小祠」が祀られています。この変わった名前のアラハバキ神を祀るのは関東では珍しく、横浜ではここにしか無いといわれています。アラハバキ神は、東北地方の津軽や出羽などで見られる(縄文時代から信仰されていた)民族神ですが、なぜここに存在するのか諸説あります。平安朝・山内本郷と呼ばれていた頃、東北から移住した「鍛冶集団の神」あるいは鎌倉街道・下の道を通して伝わった「旅や足腰の神」などが考えられます。武器の生産のための職人や工人を集めたことは、公田町の「番地」、元大橋の「番匠面」、鍛冶ヶ谷などの地名から推測されます。アラハバキ神とは、昔から信仰されたようですが諸説あり、荒脛巾・荒覇吐などと書かれることが多く、道祖神的な足腰の神、職人を主とした製鉄の神など、実際のところ謎の神というのが妥当のようです。公田町のアラハバキは漢字では「荒伯耆」と記されており、もともとは移住させられた伯耆鍛冶の神、さらには山陰に玉鋼の原料を運ぶ人達の旅の安全を祈る神様と考えられています。7世紀の頃から出雲との往来があったのか興味が湧きます。

○「桂公田神明社」(公田町445)
アラハバキ橋小公園から西に向かい、突き当りの石段を上ると「桂公田神明社」があります。創立年代は不詳ですが、古くから公田・桂の鎮守として村民の崇敬を集めてきました。旧社地は公田町429番地でしたが、周辺の大規模開発により昭和47年9月現在地に移転しました。
【桂公田神明社の庚申塔】
境内に、1基の文字庚申塔があります。

○「永林寺」(公田町485)
桂公田神明社の西側の道路を下って行くと、栄図書館の先を左折すると「永林寺」があります。鎌倉郡観音三十三ケ所観音霊場16番。本尊は釈迦如来。由緒は不詳ですが、境内、墓地には石仏が多く、特に薬師石仏、延享4年(1747)公田・桂村念仏講中の銘のある六地蔵、一石百庚申塔、青面金剛庚申塔、馬頭観音文字塔など民俗資料と

1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する