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2015年04月27日06:39

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八王子市さんぽ「京王堀之内駅周辺・別所蓮生寺から東中野熊野神社」

八王子市さんぽ「京王堀之内駅周辺・別所蓮生寺から東中野熊野神社」

○「奥州古道の辻」(多摩市唐木田3丁目)
小田急多摩線唐木田駅から南西に向かい、大妻女子大の南側の「よこやまの道」を西に行き影取池を過ぎると「奥州古道の辻」があります。ここに、町田市小山田・大泉寺方面へ続く「武相観音巡礼道」(代官坂)への分岐路があり、『巡礼古道の代官坂と奥州古道の辻』と『鶴見川源泉』の説明板があります。ここから南に下る道が「代官坂」で、道の入口に「嘉永の地神塔」があります。
http://homepage3.nifty.com/walking-climbing/kinkou/yokoyama%20103.pdf
【武相観音巡礼道】
説明板に「武相観音巡礼道」の次の説明があります。
《この付近には昔から旅の巡礼者たちにまつわる言い伝えが多くあります。それは江戸時代の宝暦年間(1759)頃から始まった「武相観音巡礼道」やそれ以前から東日本と西日本の霊場・札所を行き来する旅人が通過した巡礼道(奥州古道・国府街道)があったからと考えられます。この案内版からの西隣りには二つの古道がT字型に交差する辻であり、畑と多摩よこやまの道に沿って東西に続く緩やかな窪地(山道)が奥州古道、南に分かれて下っていく代官坂が武相観音巡礼道です。》
【武相卯歳観音霊場四十八ヶ所】
武相卯歳観音霊場は宝暦9年(1759)に開創したといわれ、四十八ヶ所の詳細は↓次をご覧ください。
http://www.tesshow.jp/buso48kannon_index.html

○「別所公園」(別所2-33)
奥州古道の辻から、武相観音巡礼道を北に向かいます。少し戻り左折して尾根幹線道路を横断して、「別所公園」を目指します。公園は南北に長く、公園の北側の隅にはテニスコートも設置されていて、地元の人たちがテニスを楽しんでいます。
http://www.yumeori-sportspark.com/menu04/
【別所日枝神社】(別所2-33)
別所広場から西に視線を向けると、街並みの向こうにこんもりとした雑木林の丘「蓮生寺公園」が見えます。そちらへ向かって広場を降りて行くと、公園の西側に「別所日枝神社」があります。別所日枝神社は別所村の鎮守で、江戸時代には山王社といわれ、元禄8年(1696)の棟札があります。もとは別当蓮生寺の裏山に鎮座していましたが、多摩ニュータウンの造成に伴い現在地に遷されました。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/274300.html
【せせらぎの緑道】
別所公園の西側の道路には「せせらぎの緑道」があります。これは南の長池から堀之内駅付近まで造られた水路で、この街区の街造りの中心に据えられています。水路は別所小入口北交差点の南を高架で超えており不思議な光景です。雨水も利用されているらしく、別所公園の地下にも地下ダムというものがあるといいます。
http://www.natsuzora.com/may/town/bessho-seseragi.html

○「蓮生寺」(別所1-19)
蓮生寺公園の南側に「蓮生寺」があります。寿永2年(1182)の創建といわれ、本尊毘盧舎那仏も同時代の作といわれており、木造寄木造で身の丈二尺八寸、現在東京都の文化財に指定されていますが公開していません。
【薬師堂】
境内には薬師堂があり、本尊薬師如来も相当に昔の作と推測されますが製作年代は不詳、薬師如来の霊験はあらたかだといいます。先年建物が火災を被り、現在は40岼未侶物になっています。本尊は一木造、立像で五尺六寸。薬師堂では、毎年元朝のほか10月12日に祈祷会を行い、国家安泰・万民富楽・家内安全・身体健全を祈っています。
http://www.tesshow.jp/tama/hachioji/temple_bessho_rensho.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E7%94%9F%E5%AF%BA_(%E5%85%AB%E7%8E%8B%E5%AD%90%E5%B8%82)
【蓮生寺公園】(別所1-28)
蓮生寺の北側にある公園で、造成以前の自然をそのまま残したような公園です。公園自体はこんもりとした雑木林の丘とその周辺部で構成されており、その中を「ふくろうの道」、「どんぐりの道」、「ひぐらしの道」などの散策路が辿っています。多摩ニュータウンの街の中に、これだけの自然が残っているというのはなかなか素晴らしく、吊橋などもあり、見晴台は城跡を思わせるような造りとなっており楽しい公園です。
http://www.medianet-as.jp/park/h-renshouji.htm
http://www.natsuzora.com/may/park/renshoji.html

○「浅間神社(松木屋敷跡)」(松木54)
松木小学校の北側に「浅間神社」があります。その名の通り、富士山がよく見える物見台のようなポイントにあります。神社の北側に道祖神があり、周辺が宅地造成される前は神社につながる小道であったのかもしれません。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/301397.html
【松木七郎の墓(宝篋印塔)】
神社の北側には、「松木七郎師澄(もろずみ)の墓」と伝えられる「宝篋(ほうきょう)印塔」があります。地名の「松木(まつぎ)」の名の由来となったといわれています。
http://www.geocities.jp/kawai5510/tokyo-hatiouji-matugi.html
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/bunkazai/16255/016285.html
【松木屋敷跡】
浅間神社は、鎌倉公方・足利持氏に仕えた松木七郎師澄なる人物の屋敷址と伝えられています。松木氏は室町頃よりこの付近を領有していて、恐らく小田原北条氏の時代まで在地土豪として命脈を保っていました(北条氏照の家臣団に松木七郎の名前あり)。恐らく天正18年(1590)の八王子落城後、帰農したものと思われます。浅間神社付近は、南側京王線付近から張り出した舌状尾根の突端部にあたり、背後の丘陵とは堀切で切断して防備を固めていたようです。現在、屋敷跡の遺構は見当たりませんが、浅間神社境内のみを食べ残したかのように丘が残されています。
http://d.hatena.ne.jp/mai9mami/20130720/asyoulike
http://atenzasports23z.blog.so-net.ne.jp/2012-03-02

○「九兵衛坂公園」(別所2-25)
別所中学校の北隣りに「九兵衛坂公園」があります。平成3年3月竣工とありますので、ちょうど京王相模原線が多摩センター以降橋本まで 開通した頃にできた公園のようです。名前の 「九兵衛坂」は、その昔の地名に由来するのでしょうか。108段の階段を登りきると、目にも鮮やかなグリーンの芝生が迫ってきます。高台からの眺望はすばらしいです。
http://www.elife-info.net/detail/2622
【鎌倉道】
この公園付近に鎌倉道が通っていて、この先、北に向けて大栗橋北交差点から都道155号線の北側を通り、阿弥陀堂の南、堀之内トンネル南側、東京薬科大前、野猿峠ハイキングコースを横断(六国台西側、通行不能)して、長沼町に抜けていったようです。

○「南八幡神社(八幡宮)」(堀之内3-29)
京王堀之内駅の北側に「南八幡神社」(八幡宮)があります。寛永6年(1629)北条氏の家臣横倉伊予守・井草小田肥後守により南八幡を勧請し、当時松木地区にあった教福寺が別当となり社殿を造営しました。その後も両氏による祭祀は続き、小田氏は代々鍵取りを務めました。ニュ−タウン宅地造成により、堀之内日陰地区にあった秋葉神社を合祀しました。ここから北に約500m行ったところに「北八幡神社」があり、『新編武蔵風土記稿』によると江戸時代の頃から既に北と南に分かれていたらしく、北八幡神社のことを八幡社、南八幡神社のことを八幡宮と呼んでいました。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/159838.html
http://hachisan.michikusa.jp/53minamihatimanjinjya.html
【武相観音巡礼道】
武相観音巡礼道は、この先、大栗川橋北交差点で野猿街道に合流して北西に向かっています。

○「北八幡神社(八幡社)」(堀之内26)
南八幡神社から北に約500m、北八幡寺芝トンネルの西上に「北八幡神社」があります。大栗川橋から眺めると、こんもりとした丘の森が見えます。堀ノ内・越野・松木の総鎮守。大石信濃守宗虎の創建あるいは寛永9年(1632)創建といいます。宅地造成により、周囲の山が削られ当社の敷地のみ樹木が残っています。高台にあり、八王子市内を一望できて眺望が素晴らしいところです。南八幡神社(八幡宮)と南北で対になっており、江戸時代は北八幡宮を「八幡社」とも呼んで区別していました。由来も縁起も分からないくらい、昔から京王堀之内周辺の神様として、八王子の台地を護ってきたお社です。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/152296.html

○「保井寺」(堀之内547)
北八幡神社の北東に「保井寺」(ほうせいじ)があります。天正年間末期の開創で、もとは鳳栖菴と称し虚空藏堂でしたが、井上頼秀が本寺永林寺四世を迎え「井上オ保ッ寺」即ち「保井寺」として現在に至っています。
【観音堂】
観音堂の本尊は如意輪観音で、武相卯年観音第12番札所で12年に一度、卯年の4月一ヶ月間開扉を行います。また、この観音様は乳の出が良くなる「乳観音」として信仰されています。
http://houseiji13.o.oo7.jp/
【五色八重散り椿】
山門の西側に、樹齢約400年で幹の太さ日本一の「五色八重散り椿」があります。
http://plaza.rakuten.co.jp/nagipapa0110/diary/200904060000/
【斉藤一諾斉の墓】
墓地に新撰組の「斉藤一諾斉(いちだくさい)の墓」があります。司馬遼太郎が斎藤一と混同したことで有名な斉藤一諾斎は、文化10年(1813)江戸で幕臣の子として生まれ、 仏門には入り明治元年に甲州郡で住職をしていました。この時に近藤勇に甲陽鎮撫隊の協力を求められすぐ承諾したそうです。 それから「一諾斎」と名乗り、新撰組に入り戊辰戦争に参加しました。その後、仙台で離隊。明治3年に中野村(八王子市東中野)の熊野神社で漢籍・習字を教えるようになり、この辺の多くの子弟に教えています。 明治6年に中野村に生蘭学舎という学校をつくることにもかかわり、教員として勤めましたが明治7年に病死し、一諾斎の子弟らで保井寺に手篤く葬られました。
http://www.pompoco.or.jp/chiikitai/tama_rekishi/199807_houseiji.htm
【井上七兵衛の墓】
斉藤一諾斉の墓に並んで「井上七兵衛の墓」があります。井上七兵衛は、井上掃部之輔頼秀(保井寺開基)の子として、同じ清和源氏の流れをくむ主君信濃源氏木曽義仲の末裔・大石定久の伴として天文7年(1538)に一族と由木堀の内へ住いを移しました。慶応7年、由木15ケ村領民が年貢に苦しむのを見かねて、別所薬師堂に七兵衛を始めとする各代表が集まり、田畑お縄改めの一身連判を願い出ました。数日後、裏切りものが出た後に差し戻し連判請願を願い出たため、猿丸御林(野猿峠付近)において打ち首となり、殿谷ケ戸獄門松に首を晒されました。哀れに思った者が、保井寺の一角に密かに埋められました。
http://hobby.life.coocan.jp/bkmts/nkjmb.htm

○「阿弥陀堂」(堀之内618)
保井寺の北西、堀之内寺沢里山公園の西側の一角に「阿弥陀堂」があります。ここは「龍生寺跡」といわれ、本堂はありませんが阿弥陀堂だけが残っています。寛政年間(1789〜1800年)に鈴木与五兵によって建てられました。個人所有なので一言挨拶が必要ですが、どこにお願いするのかが不明です。
【龍生寺の地蔵群】
阿弥陀堂を守るかのように並ぶ石仏や石灯篭は、このお堂が地域で大切にされてきたことを物語っています。お堂の正面左には明治14年の地蔵(通称酒飲み地蔵、でも酒飲みには見えません)、右には享保7年(1722)の地蔵があります。お堂の右手11体は文化4年(1807)、裏手9体は天明2年(1782)、左手12体は文化4年(1807)建立で、堂軒下にあり保存状態がいいようです。また、右側の常夜灯は文化元年(1804)の建立です。
http://hachisan.michikusa.jp/53ryusyojiamidadou.html
【坐像地蔵】
お堂前の覆屋に坐像地蔵があり、寛政12年(1800)の建立でドッシリとした豊かな均整とれた見事な地蔵です。
【宝篋印塔】
坐像地蔵の後ろに、寛政8年(1796)8月建立の「宝篋(ほうきょう)印塔」があります。高さ290僉幅125僉最上部の相輪は失われていますが、刻まれた文字によると堀之内の念仏講中を中心に鈴木與五兵衛が施主となり、新右衛門とその母などによって建てられたことがわかります。また、開眼は玉泉寺の住職が務め、信州高遠の石工團蔵が手がけたものであることも読み取れます。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/499750.html
【平成狸合戦ぽんぽこのモデル】
ここ阿弥陀堂は、ジブリアニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』の「菩提餅山万福寺(ぼたもちざんまんぷくじ)」のモデルになったところです。この映画は高度経済成長期の日本を舞台に、開発ラッシュを狸の目線で描いており、開発によってすみかを奪われそうになる狸たちが、人間を懲らしめようと奮闘する物語です。この映画は、多摩ニュータウンの開発をテーマにしていることもあり、ここ阿弥陀堂以外に京王線沿いに多くのモデル地があります。
http://www.ghibli-freak.net/pompoko/location.html

○「堀之内愛宕神社」(堀之内2号253)
野猿街道まで戻り左折して、堀之内東交差点から北に向かうと「堀之内愛宕神社」があります。慶長元年(1596)の創建といいますが詳細不明です。周囲は開発が進み、神社の周辺のみ辛うじて原風景が残っています。
【連光寺層の貝化石】
愛宕神社裏の造成中の工事現場から発掘された貝化石は、小型の離弁したアサリ(5〜10)を主とし層状に密集していました。
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/271421.html

○「善照寺」(堀之内3-12)
番場公園の南に「善照寺」があります。正安年中の創建であったと伝えられていますが、寛永12年(1635)の開基で、存貞が浄土真宗に帰入し現在安置の本尊並びに寺号を善照寺と賜ったのが起源だといいます。
http://zenshoji-hachioji.com/about.html
【番場公園】(堀之内3-8)
大栗川のほとりにある長方形の公園が「番場公園」です。芝生の広場を中心にした大きな公園で、園内には木立が少なく、公園周辺に高層住宅群があるにも関わらず広々として開放感があります。
http://www.natsuzora.com/may/park/horinouchi-banba.html

○「善徳寺」(東中野1410)
大栗川に沿って東に向かうと、大塚公園の北西に「善徳寺」があります。慶長4年の検地帳によれば、はじめは成就坊と称し慶長年間(1596〜1614年)に建立されたようです。当時は浄覚寺と称しており、その後、寛文から元禄の間に善徳寺となりました。
【小才次郎の墓】
墓地に「東中野の小才次郎の墓」があります。彼の侠名はその世界では広く知られており、大正期には関西のある親分が小才次郎の碑を箱根芦ノ湖畔に建てたという話が伝わっています。
http://blog.livedoor.jp/violence7/archives/195189.html

○「熊野神社」(東中野497)
野猿街道沿いに「熊野神社」があります。境内は特別広いわけではないのですが、周りに高い建物が無いためか広く感じられます。社殿の造営は、慶長11年(1607)だそうです。
【御神木のイチョウ】
鳥居をくぐるとすぐ、樹齢150年の大きな御神木のイチョウがあります。由来記によれば、熊野権現の恩恵にあずかって子供を授かった夫婦が、文久元年(1862)12月に献木したものだといいます。この大イチョウは、2001年9月の台風により上部の幹が折れており、決して美形ではありませんが強い生命力で厳しい風雪に耐えています。
【地蔵群】
鳥居の左横に地蔵群があります。地蔵たちの風化激しく欠損している地蔵もあり、一体は建立年代も辛うじて識別でき台座には天保12年(1841)と刻印されています。
http://www.mikumano.net/ztokyo/8oji.html
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/490669.html
【東中野道標2基】
鳥居と地蔵群の間に2基の道標があります。
向かって左側の道標には、(北)「昭和五年三月 東中野支部」、(西)「向テ左 七生村保久保ヲ経テ高幡日野町方面」、(南)「向テ右 大塚ヲ経テ多摩村府中町     方面 左 堀之内ヲ経テ八王子市及橋本」とあります。
http://hachisan.michikusa.jp/62higasinakano1.html
向かって右側の道標には、(東)「向テ左 多摩村落合ヲ経テ忠生村方面」、(北)「昭和五年三月 東中野支部」、(南)「向テ右 大塚ヲ経テ多摩府中町方面 左 堀之内ヲ経テ八王子市及橋本」とあります。
http://hachisan.michikusa.jp/62higasinakano2.html
【勝五郎生まれ変わり物語】
江戸時代末の頃、程久保村(現日野市程久保)に藤蔵という子がいましたが、数え年6才で疱瘡でなくなります。三年後に中野村(現八王子市東中野)で勝五郎として生まれた子が、兄弟に「自分は、もとは程久保村の藤蔵だった」と語ったというのです。また、ここ熊野神社に勝五郎に生まれる前の魂がとどまっていたといいます。この話がだんだんと広まって、国学者の平田篤胤が『勝五郎再生記聞』を著したりもしました。後にはラフカディオ・ハーンも別の文献『椿説集記』を英訳し「勝五郎の転生」を著しました。勝五郎のお墓は、八王子市柚木の永林寺にあります。
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/002ee8af15a094434f17fb6926f855fb
http://www.eonet.ne.jp/~eternity/sub1.html

○「最照寺」(大塚521)
野猿街道沿い、帝京大入口の南に「最照寺」があります。天正2年(1574)頃までは本山修験正浄院と号していたのを改称したとも、また浄心院と無量寿院が合併して最照寺となったともいわれ、寛永7年(1630)の中興と伝えられます。火災に罹り古文書などを焼失、由緒を辿ることは難しく、代々上杉家の寄進を受けていたという名刹です。上杉家の家紋と同じ紋が今も本堂に遺っています。多摩四国八十八ヶ所第19番札所。
http://www.bunkouken.com/s_saisyouji.htm
http://mikiomonya.jugem.jp/?eid=565

○「大塚八幡神社」(大塚518)
最照寺の南隣りに「大塚八幡神社」があり、大塚村の鎮守。慶長11年(1607)浜田郷右衛門によって創建され、明和元年(1764)現在地に遷されました。ご神体は刀剣とも応神天皇の誕生時の像ともいいます。大きな塚上(古墳?)に鎮座しており、大塚村の地名の起源ともなりました。次の説明があります。
《八幡神社は、慶長12年(1607)領主の浜田郷左衛門が大塚山上に創建、ご神体は木造で立像の応神天皇が祀ってある。また今では珍しい湯花神事が行われる。年代不詳の古い3本足の五徳に鉄釜を乗せて湯を沸かし、神主が笹を湯につけ振ってお祓いをする神事だ。》
http://hachiouji.ldblog.jp/archives/146430.html

○「大塚神明社の大イチョウ」(鹿島112)
多摩モノレールの「松が谷駅」と「大塚帝京大学」の間、モノレール線路沿いに「大塚神明社の大イチョウ」があります。大塚神明社はここにはなく、多摩ニュータウンの建設にともない、近くの八幡神社境内に移されています。大イチョウは、幹周7m、樹高30m、樹齢500年、八王子市天然記念物に指定されています。
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/bunkazai/8929/016184.html

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