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2020年10月25日07:25

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満州国の植民地化

少なくとも昭和7年8月までは、満州国は日本、朝鮮、漢、満州、蒙古の五族協和の国家としてスタートし、千忠漢の政治思想を基として民間人国づくりに励んでいました。しかし、荒木貞夫陸軍大臣と政府は、満州を植民地化する構想を決めていて、関東軍の軍司令官をはじめ参謀長以下参謀を満州から一括して異動させたのです。

参謀で残ったのは総務担当の中野良治のみで、板垣征四郎は奉天特務機関長に飛ばされ、関東軍から追い出されました。ここから、満州は日本から送り込まれた官僚と新しく赴任した関東軍参謀に支配され、植民地化するのです。

石原莞爾の処遇で難航し、定例より2週間も遅れて発令された8月の異動で、軍司令官は武藤信義、参謀長に小磯国昭、副長に岡村寧次、作戦担当課長に塚田攻、政策担当課長に原田熊吉です。誰一人、満州建国指針を引き継ぐ者はいなかったのです。

この人事は、荒木陸相、林銃十郎教育総監、載仁親王参謀総長はお飾りで、実権は真崎甚三郎次長が握っているのです。つまり荒木、林、真崎の、皇道派三人が実権を握っていたので、満州国経営失敗の元凶は、この三人でした。

のちに、11年2月の二・二六事件発生直後、戒厳司令参謀を兼任した石原莞爾が偶然にも上官の荒木、真崎を怒鳴りつけたのは、皮肉な出来事でした。本庄、板垣、三宅、石原らが建国した満州人による満州国は、満州人と小沢開作、山口重次ら在満日本人ら民間人で決定する機関「協和会」が中心になって満州国策を決定していました。

だが昭和7年8月、板垣征四郎、石原莞爾らが追い出された後には皇道派系の軍人が介入し、石原莞爾が描いた満州人による満州国は植民地化されたのです。帰国した石原莞爾はまるで罪人扱いの如く部付になり、2カ月後には外務省出向という閑職に回されたのです。

のちに多田駿から満州建国中に、「植民地化する構想が内地で決められていた」と聞かされ「なーんだ」と嘆いた。石原莞爾の毎朝の妙行は、このころから熱が入ってくるのです。

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